菜園から戻らない俺を迎えに来たリノアに、順を追って起きたことを話した。みるみる青ざめていく彼女が不憫に思ったが、真実を知る権利があると思い、そのまま事実を語った。けれど、満月の日の事だけは話せなかった。

話し終えると、彼女には身に憶えは無いようだったが、ひどく混乱して、泣きながら縋り付いてきた。
ごめんなさい、と何度も言いながら。
ひとつも悪くなんて無いのに、全部自分のせいだとでも言うように。

リノアは自分が悪くなくても、自分のせいだと責めることがあった。全て自分のせいにして、自分に価値が無いと思って。
彼女が持つ唯一の、優し過ぎる欠点。魔女の力を継承した事でさえ、自分のせいだと思っているのだから。

俺も彼女も、形は違うけれど、自己評価がとても低くて何かに怯える子供だった。
俺は殻に閉じこもって、彼女は明るく振る舞う事で上手に隠してた。
忘れたり、乗り越えたと思っていても、時々そういう癖のようなものが顔を出す時がある。
普段の天真爛漫さは、彼女が長年の努力で勝ち取ったものだと知ったのは、彼女が魔女になってすぐのことだった。
宇宙で小さくうずくまるように悲しみに耐える姿や、嫌われる前にいなくなりたいと言ったあの時の彼女を、今でも鮮明に思い出せる。
あの頃は、そんなところにも共通点を見出して惹かれていたんだと思う。

でも、今は違う。
今、心を満たしているのは、とても暖かくて、強くて、愛すべきものだ。
不安定だけれど大切な場所にある小さな扉——その扉を開ける鍵をやっと見つけたんだ。
それは、リノアとじゃなきゃ開かないし、彼女もそうなんだと思う。
だから、離れないし離さない。

これから何が起きても、きっと大丈夫だ。
これからも、ずっと。
ずっとそばにいる。
彼女にそう言い聞かせると、泣きながらも、やっといつもの笑顔を浮かべてくれた。






【0811—luna llena—】


「ごめんなさい」
この言葉を聞いたのは何度目だろう。
あの日から、肌を合わせた後に必ず彼女はそう言う。
その度に彼女をを強く抱き寄せる。心も体も離れていかないように。

一際輝く月の明かりを身に受けながら、俺たちは何度も睦み合った。
張りつめ且つしなやかな体を求めあって、何度も何度も。
繋いだ手はずっと離さずに。

彼女が絶頂を迎える度に、羽根が現れては舞い散った。
本当に、天使を抱いているようだった。
空気を求める魚のように苦しげに喘ぎながら、リノアは快感と感情の高ぶりに瞳を潤ませながら呟いた。

「スコールのこと、大好きだよ…愛してる。ほんとうに、好きなの」
知ってる、知ってるさ。俺も愛してる」
「わたし、ここに来られて…よかった。スコールのこと、いっぱい、教えてもらえた。わたしたちだ…けの…思い出」
「もっとたくさん作ろう、この先も。帰ってからも。俺も…リノアのこと、たくさん知った。釣りの才能も、料理が上手くなってたのも、キスのねだり方も……リノアが、きもちいいって言ったところも」
「……エッチ」
微笑みながら抗議した彼女はもう、瞳が閉じかかっている。そろそろタイムリミットだ。

「スコール、わたしまだ…眠りたく、ないよ…」
「少し休んだ方がいい。大丈夫、後で起こすから」
「ホントに?絶対…だよ」
「ああ、約束する」
汗で額に張り付いた髪をそっと払って、そこに口付けすると、どんな宝石よりも澄んだ黒い瞳が伏せられ、ぽろりと涙が伝った。
それが眠りに落ちる合図だった。

「リノア、これからも愛してる。おやすみ」
彼女の涙を拭ってから頬にキスをして、ベッドを出た。

(最後まで、今日の事は言えなかったな…約束破ったらごめんな)
彼女の身を清めて着替えを済ませると、一度だけ遭遇したワイルドフックを倒して以来、使われていなかった相棒のケースを開けてセッティングを始めた。

「全力で、守るから」

月が空の頂点に達した時、木戸が音も無く開いた。





『こんばんは』
「…………!悪趣味だな…」
一年で一番月が近いこの日、扉の前に現れたのは、あの鳥ではなく『俺』だった。
明るい栗色の髪と青い瞳、クタクタになったオレンジのシャツに半ズボン、擦りむいてかさぶたになっている膝、少年特有の少し高めの声。
開け放たれた窓から差し込む青白い光にさらされた『俺』が、足音も立てずに部屋へ入ってくると、小さな椅子へよじ上ってから腰掛けた。
忌々しい。座り方まで子供の頃の俺と同じだ。
ガンブレードを握る手に力がこもる。

『リノアは寝ちゃったんだね。残念だ。彼女とも話がしたかったのに』
椅子の上で膝をきちんと揃えながら、身構えた俺の肩越しに、リノアが眠っているのを見つけて心底残念そうに呟いた。

「リノアをどうするつもりだ?」
『別に食べたり殺したりしないよ。本当は《こっち側》にずっといてくれたら助かるけど、無理だろうし。用が済んだらさっさと退散するさ』
「お前は…何者なんだ?妖や悪魔の類か?」
『この前も関係無いって言ったけど?ま、いいか。どっちみち、ぼくの事は君たちの記憶から消えるからね』
「なんだって?」
『だから今日は教えてあげるよ。とってもいい匂いがするし。ぼくは《ここ》の管理者だ。ぼくら一族は《ここ》に代々住み、ここにある花を守っている。昔は魔女の《輪》を開く手伝いもしていた』
そう言うと、愛おしげに窓の外を眺めていた視線を戻して、にっこりと笑った。
エルがまだここにいた頃の俺と同じ、屈託のない笑顔で。
まるで、過去の自分と鏡の前で対峙しているようだ。
もしかして、これは幻影なのか?既にこいつの術中に嵌ってしまったのだろうか?

『きみは、ここの花畑が枯れない理由を知っているかい?ここは昔から魔女の魔法で護られているんだ。ぼくら一族はその魔法のかかった花しか食べられない。ここも本当ならあと数年後に枯れるんだ。魔法が完全に失われるからね。普通の花に戻れば潮風で枯れていく運命さ。それで一族が滅んでも仕方のないことだと思ってた。昔と違って、ぼくらの声を聞ける魔女はいなくなってしまったから。でも、』
「リノアが…」
『そう。彼女はぼくらの声が聞こえる魔女だ。まだ《未完成》だけど。だからリノアと取引させてもらった。信じるかどうかは君の勝手だけどね」
俄には信じられない話だが、最後まで聞く必要はありそうだ。
警戒は解かずに、相手に送っていた殺気を少しだけ緩めた。

「確かに信じられない話だ。それに、彼女は何も知らない」
『当然だよ。ぼくの誤算だったからね。魔女として未完成過ぎて、僕と接触した時の記憶の定着が悪かった。覚めたら忘れる夢と同じさ。…ぼくも焦っていたんだな。滅んでも仕方ないと諦めていても、希望があればすがってしまったんだから
肩をすくめて悲しげに嗤った奴は突然、パンパンと手を二回叩いた。

次の瞬間、散らばっていた羽根が一気にその手元へ集まり、一つの巨大な繭玉のようになると、そこから一輪の白いバラが現れた。
その花弁を一枚、また一枚と食んでいく。異様な光景だったが、奴にとっては普通の食事の一環なのだろう。

『リノアの作る花は美味しいね。とても甘い。みんなも喜んでいたよ。……話を戻そう。たとえ彼女に覚えがなくとも、魔法で結ぶの契約ってのはね、一度結べば破る事の出来ないルールなんだ。破ればどちらもハインの冒涜により、癒されない死が待っている。だから、手荒で悪かったけど、無理矢理彼女の《輪》を開かせてもらった』
「ハインだって…?いよいよ信じられないな。あと、さっきから言っている《輪》とはなんだ?」
『きみらの言う、魔女のほんとうの力ってところかな』
「リノアの力を無理に引き出して、あそこに魔法をかけさせるつもりだったのか?」
『正解。その代わりぼくは彼女の願いを叶える。だって、彼女じゃ絶対叶えるなんて無理なのに、あんなにずっと願ってたから…ちょっと可哀想になってね
「リノアの…願い…」
少し前に彼女も願い事の話をしていたな。その事だろうか。
一瞬だけチラリとみたリノアは、身じろぎ一つしないで眠っている。

『言ったじゃないか。きみのためだって。ぼくら一族は記憶の共有や復元、消去や書き換えも出来る。だから昔の魔女はここにずっと住んでいたのさ。継承の時にぼくらの力を使って、力と知識を継承した。ぼくらは魔女の魔法で飢える事は無い。簡単に言えば共生だね。月の涙で散り散りになってからは、ぼくらの事も…いつしか忘れちゃったみたいだけど』
その話は妙に納得した。確かにそれなら全てを得る事ができる。記録に残らないはずだ。

『きみの場合、記憶はあいつらに喰い荒らされた後だったから、昔のはほとんど残ってなかったけど、ちょっとは思い出せたんじゃないかい?あいつらって野蛮だよね。全部食べて、初めからなかった事にするんだから。よくあんなのと付き合うよ』
食い荒らされたって事は…あいつらとは恐らく、G.F.のことなのだろう。こいつはG.F.のことも把握している。
奴の目は同じ色のはずなのに、吸い込まれそうな深さを湛えていて、身の毛がよだった。

そして、ここに来てからの事を思い出した。
そうだ。事あるごとに、幼少の記憶が次々と浮かんできて————!

「そんな…嘘だろ…」
ドクンッ。
一際大きく心臓が跳ねた。


———私ね、魔女になってから神様にずっとお願いしてる事があるんだ———


彼女の声が、胸の奥でこだまする。
まさか、リノアは…。

『ヒトは良い思い出とやらがよほど大事らしいね。確かに清らかなエネルギーだし、あいつらにとってもごちそうだ。リノアは君の記憶が奪われてしまったことに、ずっと心を痛めていたよ。子供の頃の良い思い出すらも消えてしまっていた事に』
「リノア…」
思わず振り返って彼女を見つめた。
疲れきった中にも、安らかで幸せそうな寝顔の彼女を見ていたら、何かが強く、大きく揺さぶられた。
喉元までせり上がってきたものを、唾を飲んで必死に押し込めた。
けれど。


涙が。
涙が、止まらない。


音も無く溢れるそれを拭って、震える指先で彼女の頬に触れた。
濡れた手袋越しでも暖かく柔らかい。
この温度、感触こそが、彼女がここにいる証。

「…ばかだな、リノア。過去なんか消えてしまったって、あんたといる今の方がよっぽど……っ!」
本当に、ばかだ。
自分の身を捧げて、悪しき世界へ堕ちてしまうリスクを抱えてまで、俺の為になんて。
心の奥底にいる、傷を抱えたままの子供の俺までも、癒そうとしてくれていたなんて。

『今度の半月で、完全に魔法がかかる。そうすれば契約は完了だよ』
「…リノアはどうなるんだ?」
『今の状態だと、きみの心配通りになるね。《輪》を無理に開いて歪んでしまったから。でも、悪い事をしたとは思っていないよ。契約だからね』
「どうすれば、彼女は悪しき魔女にならずに済む?」
『それを聞いてどうするの?きみには何も出来ないよ』
「でも、お前には出来るんだろう?」
『一度開いた《輪》を閉じて、開くべき時まで心の安定を図れるのなら。でもぼくは、それなりの対価がないと何もしないよ』
「俺に払えるものは、あるか?」
俺の言葉に、奴は一瞬困った顔をした。言うべきかどうか迷っている顔だ。

『…………ないことも、ないけど』
「頼む、俺はどうなっても構わない。彼女を、リノアを戻してやってくれ」
彼女が悪しき存在にならないなら、なんだってする。笑顔を守れるなら。それこそ、悪魔に魂を売っても構わなかった。
穢れるのは、俺だけで十分だ。

『ぼくら一族のことは、今はまだ誰にも知られてはいけないんだ。ある方との契約でね。だから君たちの記憶を消すのさ。でも、ぼくだって自分の仲間が大事だ。やっぱりここの魔法が消えてしまわないようにしたい』
俺と同じ瞳で見上げたきた奴は、意を決したように告げた。

『きみの血に、ぼくらの事を刻ませてもらう。記憶に残らずとも、きみの子孫が魔女を導き、ここへ来る道しるべとして。ヒトはすぐ争うし裏切る。恐ろしい未来や絶望が待っていたとしても、きみは…きみの血族は、血を絶やす事を永遠に許されなくなる。呪いのような契約さ。それでも彼女を助けたい?』
「構わない。リノアの為なら。無責任と言われようが、リノアが戻るなら未来なんてくれてやる。それに、ヒトを侮るな。争いが起こらないようにすることだって出来る力だってある」
『そうか…そうだね。分かった。契約成立だよ。彼女がぼくとの契約を終わらせたら、開いた《輪》を閉じよう』