『悪いことばかり想像するとその通りになるよ』
そう彼女に怒られたから、考えないようにしていたんだ。
愛する彼女の言葉だから、今もそれを信じている。

けれど、この状況はどう考えたらいい?

全ては、俺のせいなのか?
彼女を苦しめているのは、俺なのか?

リノア。俺は、どうすればいい?






【0727—Fantasía y realidad—】


「……………………」
窓に差す陽の光で目覚めた。この家の天井を見上げていると、子供の頃の自分とリンクして、夢か現実か一瞬分からなくなる。
ゆっくり起き上がって隣を見れば、窮屈なシングルベッドに横向きで眠る彼女の姿があった。
ここへ来て一週間も経たないうちに一つのベッドを分け合うようになって、もうじき8月になろうとしていた。
日差しは盛夏を謳歌して朝から強く降り注ぐので、外にある色のコントラストが一層強く感じられる。
反対に、この部屋には真夏に雪が降ったかのように真っ白な羽根がそこかしこに散らばっていた。

やっぱりまた、出たのか。
俺にも気付かせず、それが出現することがあった。4日程前もそうだった。彼女が眠っている間に2回、現れている。
厳密に言うと、彼女が起きている時間が減ってしまっていて、睡眠中となっているのだが。

最初はよく眠るなと思う程度だった。
元々彼女は寝付きが良い。バラムの気候より過ごしやすいし、のんびりとした生活でストレスを感じないから、余計に深く眠れるのかと思っていた。
それが次第に昼過ぎに起き出して、日が沈むとあっという間に眠ってしまう事もあって、過眠症なのかと思い始めた。
だが、それも間違いだった。リノアの翼が現れる前日辺りから睡魔が襲うことが分かってからは、相談したエスタの研究班もこっちもその前兆だと判断していた。

しかし、最近はまた様相が変わってきた。
ついには、丸一日眠る日が出てきたのだ。
揺すっても、頬を軽く叩いても、大きめの声で呼んでも、全く反応しない。厭な言い方だが、死んだように眠る。
彼女が昏睡状態に陥った時のことを思い出して最初は随分取り乱したが、翌日パッと目覚めたリノアに変化が無かったので、涙が出る程安心して掻き抱いた。

眠る事が次第に怖くなったのか、たわいもないことを長々と話したり、何度か彼女の方から体を求めてくることもあった。けれど、睡魔はそんな時にも容赦なく襲いかかってきて、キスにうっとりと目を閉じた瞬間、まるで電気のスイッチを切るように意識が体を離れてしまうこともあった。

目覚めてからも、彼女は夢の続きを見るようにぼんやりと虚ろな事がしばしばあった。
特に日の落ちた花畑にいる時は、何かを待っているように辺りを見回しては、茜色の雲や広々とした群青をよく見上げていた。
理由を聞いたが、本人にも分からないらしい。でも、そうしないといけないような気になると言っていた。
 
誰かに奪われる——理由もなくそう考えて、星空の下、むせ返りそうなチュベローズの香りの中で彼女を組敷いてしまった事もあった。
そんな俺に顔を赤らめて、困ったような嬉しそうな顔をして全てを受け入れてくれた彼女を、愛しく思うと同時に切なくも感じた。

羽根と、眠りと、何かを待つ姿。
きっと彼女に起こっている事、これから起こる事への大事なピースの一部だと思う。
リノアのような勘を持っていないが、近々、彼女に大きな変化があるような気がする。
その度にトラビアのことを思い出してしまって、自分で自分の頬を叩く羽目になった。

昨日の夕方から眠っていたリノアは、かろうじて朝と呼べる時間に目覚めて、近頃は見られ無かったスッキリとした顔をしてベッドから抜け出してきた。テーブルで今朝の羽根の調査記録を書いていた俺の首に腕をするりと巻き付けて、頬と唇にひとつずつ、キスを落としてきた。

「おはよう、スコール」
「おはよう。気分はどうだ?」
「喉がカラカラ」
「水でいいか?」
「うん、ありがとう」
向かいの椅子に座ったリノアは、外の花よりも花らしく、ほわっと微笑んだ。彼女の愛らしい笑顔を見たのは久しぶりのようで、嬉しくなって小さく微笑み返した。

水差しに残った水をコップへ流し込むと、リノアにそっと差し出した。彼女は礼を言うと、コップ半量程の水を一気に喉へ流し込んだ。
彼女はあまり冷たいものを口にしないのは知っていたが、常温の水を好んで飲むのは、ここに来てから初めて知った事だ。

「何か、食べられそうか?」
「う〜ん…。ちょっと食欲無いかも」
「昨日も同じ事言ったよな。ここは比較的涼しいけど夏場だし、何か口にしないとバテるぞ」
リノアは7月の半ばから食欲が落ちている。一過性のものだろうが、さすがに昨日から何も口にしていないのは咎めないとならない。俺の言葉で、子供が怒られた時のようにリノアは下を向いた。

「ごめん、そうだよね……イチジクなら食べられるかも」
「分かった。取ってくる」
「司令官殿を使って申し訳ない」
「大丈夫だ。ガーデンに帰ったら倍にして返してもらうから」
「わ、それ怖い〜!」
裏口から出ると、まだ背丈の低いオリーブで両側を囲われた道を抜け、その先の芙蓉とノウゼンカズラが争うように咲く角を曲がると目指す菜園がある。端に植えてあるたくさんの向日葵がリノアのようで眩しい。
菜園はこじんまりとしていたが、一人二人なら十分な量の野菜がそこかしこにあって、今日来て最初に目に入ったのは、収穫し忘れて黄色くなりかけたキュウリだった。

(悪いな、今日はお前を穫りにきたんじゃないんだ)
赤く色づいたトマトや濃い色をしたナスの奥にある目当ての木を見つけると、赤紫に色づいて熟していたものが2つだけあった。それをもぐと、風で揺れた葉から甘い香りが漂ってきた。
その香りで、ママ先生の作ったイチジクのジャムを思い出した。そう、こんな甘い香りで果肉の粒が癖になる、匂いに反して甘過ぎないジャム。同じくイチジクを練り込んだパンと一緒によく食べていたのに、今は甘いものをほとんど口にしなくなったな。
懐かしくなって、目を閉じてからもう一度その葉の香りを嗅いだ。

ほんとうに、ここに来てから昔の事をよく思い出す。どうしてだろう。
思い出す度に、辛く悲しい事ばかりではなかったなと——過去の傷が癒えていくような気持ちになる。



『それは、彼女がそう願ったからさ』
突然、背中へ誰かから声をかけられた。
振り向いたが誰もいない。誰だ?聞こえるのは風に揺れる草の擦れる音と、遠くから聞こえる波の音だけだ。
嫌でも体に馴染んでしまった心拍数まで、あっという間に引き上げられるような体を使い、全神経を集中させて戦闘態勢を取る。

『そんな殺気立たれても困るな。ここさ。前にもトラビアで会ったね』
「!」
振り返ると、10メートル程先のフェンスの上にあの時の白い鳥がいた。だが、以前より体長が大きい。隼のような体にカラスのような太い嘴を持って金色の鋭い目をしている。神々しいとも呼べる出で立ちだ。
気押すようなその鋭さに竦みそうになるが、その声は対照的に子供のようだった。

『きみは、あの子のナイトなんだね。なるほどね』
「お前は……あの時の鳥か?何者だ」
『別に何者だっていいじゃないか。きみには関係ないよ』
翼を毛繕いしながら鳥は答えた。やっぱり、あの声は間違いなんかじゃなかった————!

「リノアがああなったのは、お前のせいか」
『正解だし不正解。リノアって名前なんだね。ふーん。彼女があんなに願うから、だったらって…取引しただけ』
「何を取引したんだ」
『質問攻めだね。悪いがぼくも長旅で疲れてるんだ。またにしてくれないか。そうだな、次の満月に会おう』
「おい、待て………!」
慌てて捕まえようとしたが、鳥は煙のようにすっと消えて、手は空を切って、そのままフェンスを掴んだだけだった。

『これだけは教えてあげるよ。リノアは君のために取引に応じたんだ。感謝するんだね』
「俺の……ため………?」
いきなり示された理由に、鈍器で殴られたような衝撃を受けた。



リノアは、俺の為にこんな事になったのか?
俺の……俺のせいなのか?
あいつの言う事が本当なら、彼女がこの状況を受け入れていると言うことなのか?
そんな選択をした明確な理由が思いつかずに、頭がぐちゃぐちゃだ。
 
さっきの心拍よりももっと早い、命の危険を察知した時くらいの鼓動を感じながら俯くと、左手に持ったままだったイチジクが目に入った。



まるで、二つの心臓を握りしめているように感じて、全身がゾクリと震えた。