彼女の怒り方は三種類ある。
一つは顔を真っ赤にして抗議する(すぐに収まる)。もう一つは涙を流しながら(彼女の泣き顔は辛いので真っ先に解決させる)。そしてもう一つは————。

「リノア、まだ怒ってるのか?あれから何日経ったと…
「ん〜と…六日だね。まだ怒ってるよ」
にっこりと笑ったまま(心ではブスッとしたままだが)テーブルを挟んで向かいに座っている、スカイブルーのワンピース姿の彼女は、自分の皿に乗った最後のミニトマトを口に放り込んだ。
笑って怒るリノアに何を言っても無駄なのは経験済みだが、ここまで長いと、さすがに心にも体にも応える。

何も言わなかったことをきっと怒るだろうとは思っていたが、案の定、彼女は六日前の事で怒っている。
実はこれでもマシになった。最初は視線どころか、会話すらしてもらえなかったから。

内心溜息をつきながら、彼女に倣って俺もトマトを口に運んだ。
彼女の一挙一動に気を取られ、無意識に前歯で圧をかけていたせいか、中の種が勢い良く飛んで、ピッと俺の白いシャツの袖口に付着した。

(マジかよ………!)
「罰があたったね」
一部始終を見ていた彼女は、澄まし顔でしれっとそんなことを言って、さっさと席を立ってしまった。
後を追うように慌てて立ち上がると、椅子がガタンと派手な音を立てた。

「おい、だから黙ってて悪かったって…」
「六日経ってもまだ分からない?鈍過ぎ。黙ってた事が悪いんじゃなくて…まぁ、それも嫌だったけど…私は、スコールが自分の命を粗末にしたことに怒ってるの」
リノアは汚れた食器を持ったまま、諭すような声音とは対照的にキッと強く睨んできた。

(鈍過ぎって…言われた)
いや、そんな事を思っている場合じゃない。
全力で修復しなければ。悪いのは俺なのだから。

「それは…すまないと、思ってる」
「何かあってからじゃ遅いんだよ?」
「…………」
「もう、黙って危ないことしない?」
「しない」
「何かあっても、必ず私に話してくれる?」
「約束する」
いつかの出来事の反対のように、俺が視線を落として項垂れた。
近くで溜息が聞こえて、顔を上げるとすぐそばにまでリノアが近づいていた。

「じゃあ…」
テーブルの隅に戻ってきたリノアが食器をそこに置くと、手を差し出してきた。

「シャツ、脱いで。トマトはすぐにシミになっちゃうんだから。その代わり、洗い物して」
「分かった」
やっと和解の『わ』の字を見せてくれたリノアの気が変わらないうちに、素早くシャツを脱いで渡した。
脱ぐ時にグリーヴァが揺れて金属音が鳴ったと同時に、彼女が胸に飛び込んできた。
後ろにたたらを踏みつつも、しっかりと受け止めると、秀美な彼女の髪と頬が素肌に触れた。
肩が、震えている。

「リノア、泣い————」
「……………プッ!」
いきなり吹き出して、ヒーヒー言いながら大笑いしだした。
状況について行けず、リノアを支えながら呆然としていたら、その顔を見て、彼女がまた笑いだした。

「ちょっ、スコー……!す、捨て犬みたいな、か、顔して……!」
「「……………悪かったな」」
………ハモった。しかも、絶妙に。

台詞を見事に当てられてしまって、ムッとした。
やり過ぎだと自覚したのか、涙目のリノアが目元に手をやって瞬きながら微笑みかけてきた。

「ホントは三日目ぐらいから許してあげようと思ってたんだけど、段々収拾がつかなくて…ごめんね」
「いや、悪いのは俺だし…」
「でも、スコールが無事で本当によかった」
「リノアこそ、何もなくてよかった」
改めて、優しい抱擁を贈りあうと、黒目がちの瞳が目で雄弁に要求を語ってきた。

彼女の唇にそっと同じ器官を重ねる。ゆっくりと何度も合わせて少しずつ彼女の唇を開かせる。
それはとてもフワフワと柔らかくて、綿菓子のようだ。
もう瞳は閉じられてしまったけれど、気持ち良さを感じる毎に、震える睫毛が愛おしい。
開いた口の奥に潜む、暖かくて弾力のある舌を絡めると、甘酸っぱいトマトの味がした。 きっとリノアもそう思っているはずだ。
口づけを深めると、リノアはくぐもった声を上げて、一層体温を上げていく。
シャツはいつしか床に落とされていた。
しばらくして、爪の先まで火照らせた彼女が、夢心地の顔で囁いた。

「シャツ洗って、食器も片したら…」
「仲直りしよう……六日分?」
「…うん」

リノアが最後の『仕事』を終わらせれば、今日が終われば、この日のことも忘れてしまうのだろうか。
不思議なやつに振り回された日々だったけれど、こんなにも二人でいられた事がとても貴重に思えて、ほんの少しだけ名残惜しい。

この夏、愛する人とここで過ごす最後になるだろうこの日。
彼女のワンピースと同じ色の、雲ひとつない晴天だった。



【0817—Tu amor y mi amor—】


ランタンを片手に、リノアの手を繋いで外を出た。
満月の日は光が強過ぎて見えなかった星も、光が半分になればよく見える。 
気温でまだ夏だと思っていても、空は間違わない。天体はもう、秋の星座にシフトしている。
サラサラと音を立て、風に乗って運ばれてくる青い匂いの中に、ここに来てから知った香りが流れていった。

珍しく虫の声も聞こえない、静かな花の園。
少し進んだだけでも道に迷いそうな気持ちになるのは緊張感のせいか、それとも、ここに残る過去の魔法のせいなのか。

「少し、怖い」
「大丈夫、隣にいるから」
「うん」
不意に、巻き上がる向かい風に体を煽られて思わず目を閉じて身を屈めた。
風が止むと、いつの間に現れたのか、奴がいた。
あの日と同じ、俺の姿で。

『やあ、待ってたよ。ようやく話せるね。はじめまして、ハインの加護を受けた唯一の存在…彼の希望…魔女リノアさん』
「あ、あの…はじめまして。あなたのこと、何も思い出せなくてごめんなさい」
そう言ってぺこりと頭を下げるリノアに、俺も奴も呆気に取られてしまった。

『きみ、おもしろいね。ぼくのこと怒ったり恨んだりしないの?』
「確かにちょっと意地悪だと思います。最初からちゃんと出てきて、話してくれれば良かったのに。でも、あなたもそんな余裕無かったのかなって思ったら…」
『優しいね。なるほど、きみがどうして魔女になったのか少しだけ理由が分かった気がするよ』
一度だけ瞬きして笑ったそいつは、視線を空へ向けた。

『さあ、始めようか。ぼくも手伝うよ』
目の前の小さな子供のようなものが、小さな手をリノアに差し出して来た。
彼女は何度か俺を振り返って、俺がが小さく頷くのを確認すると、躊躇いながらその手に触れた。

あ…!」
リノアが小さく驚きの声を上げた。
彼女の周りだけが、上から照らされているかのように忽如として明るくなった。
指の先、肘、肩…繋いだ手から光が彼女へ向かって流れていくようだ。そして、ついには体全体を包んで大きな翼を形成していった。乳白色をした光の翼は、ヴァリーを思わせる。
いや、それ以上の輝きで目が眩みそうだ。
悠然と翼が広がると、輝きが一層増した。

『………あんなに歪んでしまっているのに、きみはまだ、染み一つない翼が出せるんだね』
「え?……あ……」
『大丈夫、ゆっくり力を抜けば羽根が一気に抜け落ちるよ。その後の事は、ぼくに任せてくれればいい』
「…………」
リノアは目を閉じて深呼吸を始めた。息を吐き出すと、解れるように羽根が一気に抜け落ちて空へ舞い上がった。
バランスが崩れたのか、リノアの首が仰け反った。

「リノア………!」
顎が真上を向いた瞬間、膝からくずおれるように地面へ沈みそうになったのをすんでの所で支えると、顔を覗きこんだ。

「大丈夫か?」
「うん、へいき」
うっすらと額に汗をかいたリノアは、初めは目線が定まらずぼんやりとしていたが、俺の視線を捕えた後、何かに気付いたようにまた視線を逸らした。
おもむろに、彼女の指が天を指した。

「スコール…あれ…」
「……………!」
指差された頭上の光景に、思わずヒュッと息を飲んだ。

彼女の羽根を追うように、色とりどりの蝶が空に舞い上がっていた。
気付けば、花々からは淡い光が放たれ、風で揺れる度に光の粒をくゆらせている。
リノアや俺を撫で上げた一粒の光は、無邪気に遊ぶように、気まぐれなダンスのように、上へ上へ昇っていくと、次第に形を変えて薄桃色の蝶に変わった。

「きれい……」
「ああ」
空高く幾重にも色彩がうねる様は、まるでオーロラのようだ。

「これが…ほんとうの、魔法の力なの?」
「さぁ、どうなんだろう」
『そうだよ。今までいろいろ見てきたけど、きみの魔法が一番きれいだ』
ハッとして声の主を捜すと、もう子供時代の俺の姿は無く、初めて遭遇した時と同じ白い鳥が、かろうじて抱えられる程の大きさの岩の上にいた。
よく見れば、同じような白い鳥が何羽もその岩に乗ってこちらを見ていた。奴の仲間なのだろう。

『リノア、これで契約は完了した。同時に、君の《輪》も閉じておいた。君の意思でそれを開く時、善き形となるように願ってるよ。……あとは、騎士のきみだけだ』
「分かってる、好きにしろ」
不安げな表情のリノアを座らせたまま立ち上がると、金色の双眸に睨まれた。けれど、そのまま動こうとしない。

「おい、さっさと…」
『ぼくはね、ヒトにいたずらするのも好きだし、賭け事も好きでね』
「?」
『ちょっと前に…きみらで言う17、8年前に賭け事をしたのさ。自分が大事にしているものを、自分以上に大切に出来るかを。結果ぼくは、賭けに負けてしまった』
「一体何の話だ?」
話の内容が見えてこなくて戸惑う。そんな俺に、ゆっくりと立ち上がったリノアがギュッとしがみついてきた。

『そもそも、魔法が使えないきみとは契約が結べないのさ、残念ながら。でもぼくはきみの願い通り、リノアの《輪》を閉じた』
「何が言いたい?」
『賭けに勝ったら、勝った方の願いを叶える。だからぼくはきみの願いを叶えた』
「俺はお前と賭けなんて…」
『さぁ、話はこれでおしまい。きみたちが慌てるのも、あれこれ動き回るのも見ていて楽しかった』
「待て、何が何だかさっぱり……!」
『心配しなくても、記憶は都合良く書き換えておくよ。さあ、おやすみ。魔女と騎士』
白バラを作った時のように、パンパンと手を叩くような音がした。
頭の中が突如として白く靄がかかっていく。隣のリノアは既に意識が朦朧としているようだ。
遠のく意識の中で、あの声が聞こえてきた。

『やっぱりリノアの作る花は美味しい。とても気分がいいからいいことを教えてあげるよ。ぼくとの賭けに勝ったのは………』




(————!!!)


もがきながら意識を手放す最後の瞬間、
浮かんだのは、










真っ白なカサブランカの似合う、あの人の笑顔だった。