あれが何だったのかは、まだ分からない。

眩しくて愛しくて少し切なくて——忘れられない日々だった。

 

 

 

 

 

El verano está llamando  

 

 

 

 

 

【0723ーEsconditeー】

 

 

パチン……パチン。

何処も彼処も石で出来た壁に、花の茎を切るような音が響く。

 

その音を、最近では三日に一度は響かせる事になった。

先週までは五日に一度でも間隔が早いと思ったのに。

木製の小さな椅子に座って大きめの鋏で丁寧に一本ずつそれを切り落として行く。

切られている側に痛みは無いらしい。撫でるように触れてみても、特に何も感じないと俺の前で背を向け同じように座っているリノアが言っていた。

きっと一気に引きちぎっても問題なのだろう。けれど、あまりにも美しかったから手荒な扱いはしたくなかった。

 

パチン。

全て切り落とすと、それの『骨組み』が瞬時に消え、見慣れたいつもの背中が戻ってきた。ほっそりとした首もなで肩も揺れる漆黒の髪も同じ。

軽く羽織った彼女の青いカーディガンの背中に染抜かれた模様も。

彼女の側を離れて鋏を備え付けたばかりの棚に戻すと、鈴のような声が訪ねてきた。

 

「終わった?」

「ああ。それにしても今日は小さい割に量が多かった」

「日によってムラがあるなんて面白いね」

自分のものなのに随分他人事なんだな、なんて思ったが、立ち上がったリノアがそれを事細かにノートに書き付け始めたのを見たら、そういう訳ではないらしいと言うのが分かった。確かにそれも大事な『記録』だ。

 

「片してくる」

「ありがとう。あ、今日は何が咲いたか教えてね」

「ああ」

 

散らばったそれを手で拾い集めてバケツに入れて行く。今日はバケツ二つにギリギリ収まる量だった。

そのうち外で切るかバケツを足して二往復しないといけないかも知れないなーー出来ればそれまでには解決してくれると良いんだが。

バケツを引っさげ、鋏を収めている棚の上にある植物図鑑を小脇に抱えて外に出ると、涼やかな風が体全体を撫で上げた。

今日は真夏の割に風のおかげで過ごしやすそうだ。

 

かつて彼女と待ち合わせを約束した場所で立ち止まると、バケツの中身を一枚、本に挟んでそのまま足元に置いた。

今日もいい天気だからきっと良く育つ。農夫の気持ちになったようでひとり苦笑する。

バケツの底を持って水を撒くように中身を野に放った瞬間、白かったはずのそれは空を舞った途端に太陽の光を反射して淡いクリーム色に変わって風に煽られながら高く高く大空を舞う。

その行方を目で追いかけて最後の一枚が視界から消えたのを確認し、取っておいた一枚を持った。それはとても柔らい感触で掌をくすぐってきた。

 

色とりどりの草花を分け入って地面の露出した場所を選び、手にしたものをそっと落とす。

地に落ちて瞬きをする間もなく、そこにはピンクの小さな花が咲いた。屈んでゆっくり引き抜くと、草はぶつり…と、昔から根をしっかり降ろしていたような音を立てて大地から離れていった。

草の根についた土を振り落としてから図鑑の置いてある場所まで戻ろうとした時、石柱の側に白いノースリーブのワンピース姿をしたリノアを見つけた。鍔の広い麦藁帽子を手で押さえながらこっちへ向かってくる。

 

「今日は外も涼しいね!……っ、でもやっぱり日向は暑いね。カーディガン脱いじゃった」

途中躓きそうになりながらリノアが俺の元までやって来ると、風に揺らされた花が、生みの親である彼女の訪れを喜ぶかのように一斉にさざめいた。

 

「そうだな、風が気持ちいい」

「今日はお外でお昼食べようか?サンドイッチにしようと思ってたから」

これからなら何処が日陰になるのかを頭の中で瞬時にシミュレートしながら、その場所が昼食の場に適任かどうか当てはめて……結果、裏庭なら大丈夫という結論を導き出した。

 

「良いな、そうしよう」

言葉と笑みを返しながら彼女の空いている手を取った。リノアも嬉しそうに笑って、ほっそりとした指を絡めてくる。

手を取り合って来た道を戻ると、彼女がすかさず置きっ放しにしていた図鑑を拾い上げた。

 

「今日はなんだろ。それ、お花じゃなくて葉っぱが匂ってるんだね」

「俺にはちょっと香りがきつい」

「スコールって鼻が利くもんね。アンジェロみたい」

彼女の愛犬と一緒にされて複雑な気分になったが、今の彼女は相棒にも人にもなかなか会えない状況だから、淋しくてわざと引き合いに出したのかも知れないと思ったので反論せずに黙っていることにした。

 

幼少期を過ごしていた石の家の入り口そばの階段に座り込み、隣同士寄り添うと彼女が図鑑の皮表紙を開いた。花の色ごとに分かれている本だから、今日はピンクのページだ。

ママ先生がここに戻ってから、少しずつだけれど廃墟らしさは消えつつあるが、子供部屋へ続く扉の周辺はさすがに再建不能だと聞いていた。来てみると、今はすっかり石が片付けられ、その場所には小さな池が出来ていた。

草木の生長は早い。出来たばかりの池の周りにはもう青い花が群生していた。

 

(サイファーが手直ししたと聞いていたが…その割に仕事が丁寧だ。風神と雷神のお陰かもしれないな)

 

「……….あ、あった。多分これ」

意識を図鑑に戻してみれば、確かに同じ花の写真が載っていた。

「ゼラニウム、か。そうだな。葉も同じ形してるし、間違いないんじゃないか?」

二人して花と図鑑を見比べて間違いないことを確認すると、俺は持ってきた花を栞のようにそこに挟んだ。それを見届けたリノアがパタリと本を閉じた。これももちろん『記録』に使われる。

リノアは脱いだ帽子を自分の横に本と一緒に置くと、俺の膝に自分のそれを軽くぶつけてからじっと見上げてきた。

 

「なんだ?」

「はぐはぐとちゅー」

何と無く察しはついていたが、キスの要求は滅多にないことだから、つい顔が緩んでしまった。普段なら外でこんな事は言わないのに、周辺一帯にいる人間が俺とリノアのふたりだけだからだろうか。

望まれるがままに、しなやかな肢体を腕に収めてからわざとゆっくり——もう瞳が閉じかけている彼女の顔に近づけると、待ちきれなかったのか彼女から唇を寄せてきた。

 

ゼラニウムの香りが手についたのか、それとも本に挟んで少しつぶれたのか……さっきまで苦手だと思っていたバラにも似た匂いは、彼女の体臭と混ざり合うと一層甘い芳香へと変化して肺の隅々まで行き渡り、体の底から波立つような——衝動が抑えられないような気分に陥った。彼女の髪が風になびいて俺の頬を撫ぜる。

なぜだろう。キスを、止められない。

 

「ん……、スコール…お腹、空いてる?」

「いや、まだ」

日はもう昼前の方角へ昇り、日陰の面積も小さくなっている。けれど、どうしても彼女の唇から離れ難かった。

息継ぎの合間の会話でさえ時間が惜しい。

もう体の力が抜けそうになっているリノアの後頭部と背中をしっかりと抱き支えながら、今度は角度を変えて口付けを深くする。

くちゅり…と次第に増えて行く音も、彼女が反射的に握りしめた俺のシャツの音も、遠くで聞こえる小鳥の囀りも、彼女を愛しいと思う心に拍車がかかる要素として俺を支配していく。

 

「ね、ここじゃ…」

「分かってる」

立ち上がって帽子と本をリノアに持たせ、もう力が抜けきった彼女を横抱きにした。

幼子のようにぎゅっとしがみついてくる彼女の、重くはない体重を感じながら階段をゆっくり登ると、足で木戸を開けて中へ入った。日陰の多いひんやりとした部屋の中で、カーテンが同じ方向にゆらゆらとそよ風に乗って揺れている。

 

ここに来る事になって持ち込んだのは、少しの家具と生活に必要な最低限のもの、彼女の好きな本だった。薄桃色のカーテンは、先週ママ先生の許可を得た上でリノアがリクエストしたもので、キスティスが用意してくれたものだ。

部屋の隅に置いたベッドに、もう少女ではなく女性と表現しても良いかも知れない彼女を横たえると、手に持った荷物を受け取ってあるべき場所へ置きに行こうとした。が、リノアが俺のシャツを握りしめてそれを阻止してきた。

振り返るとリノアの上気した頬と潤んだ瞳から目が離せなくなった。

 

「…後で良くない?」

「それも、そうだな」

そうだ、時間に追い立てられる必要なんてない。今の俺は任務も何も無いただの魔女の騎士だ。

ベッド脇の床に無造作に置いて、彼女の髪を一度、毛先まで撫でてから覆い被さった。

 

キシリ……ベッドのスプリングが鳴る音が何故か子供の頃の記憶を呼び覚ました。ゼルとセルフィがベッドを何度も飛び跳ねて俺とアーヴァインにぶつかって…そうだ、あいつは泣いたんだ。その声でママ先生にバレた2人はこっぴどく怒られてたな。

ここがイデアの家だからだろうか、ここのところ昔の事を思い出すことが多かった。

つい上の空になってのに気付いたリノアが、控えめに声をかけてきた。

 

「スコール?」

「ああ、すまない。子供の頃の事を思い出してた」

「いい思い出?」

「そうだな…アーヴァインの奴が泣いたからいい思い出だな」

「なにそれぇ」

手を口元に置いてクスクスと笑う彼女が、何を思ったのか俺の鼻を指でツンとつついた。

お返しに、彼女のワンピースの首元から胸元まで一直線に並ぶ貝ボタンを線を引くように撫でると、彼女が小さく抗議混じりに喘いだ。彼女のだらんとした両手の開き具合にそそられる。

 

「もう感じてるのか?」

「ばか……」

差し込む光は柔らかく彼女を照らし、透けてしまいそうな白い肌をふんわりと浮かび上がらせている。日の光もシーツも彼女も何もかもが眩しい。

お互い服を脱ぎ捨てると、彼女の両胸を控えめに飾る赤い膨らみがさっきの花のように見えて、いつもは一番に触れる事を自重しているのに指が禁を破ってしまった。

本当は真っ先に触りたくて仕方が無いのだが、胸から攻めるのは何だかがっついている気がして、つまるところ彼女の前では格好つけたいだけなのだ。

 

「ふ…ぁっ!」

ぼんやりと窓を見ていたリノアの意識がこっちを向いたのと、波が引くようにカーテンがゆっくりと戻る様が合図のように思えて、一度聞いてみたかった事を実行に移す事にした。

 

 

 

「リノア、今日はどんなふうに抱かれたい?」

 

 

 

身体の内から押し寄せる波と取って変わるかのように、風はいつの間にか静かに止んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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