【0705ーwhirlwindー】
「う〜、やっぱり眠いよ。もうちょっと寝てたらダメ?」
「仕方ない、あともう少しだけだぞ。昼前になったら起こすから」
「はぁい」
だいたいこの辺りと決めた起床時間になっても全く起きる気配の無いリノアを揺すると、ようやく目を開いた。けれど、何度も顔をこすっている。どうにも眠気が取れないらしい。普段の大きな目が重い瞼のせいで半開きになっているのを見たら無理にベッドから起こす気が引けて、仕方なくこちらが折れて寝かせておくことにした。
当分二人っきりの生活だから、怠惰だろうが誰からも怒られる環境ではない。
どうせ何も起こらなければ、ここにいる間は寝るか食べるか……をする位なものだ。
(ここ最近ずっと気が張ったからな、ようやく緊張がほぐれてきたってところか)
5日目に入ったこの生活も、最初の3日間に比べたら慣れたといっていい位の落ち着き具合になった。彼女の事が気になって目を覚ます事はあっても、時差ボケのように夜中に何度も起きることも無くなったし、体に染み付いている生活リズムも休日のように静かで穏やかになっている。こんなにもゆったりとした生活を送るのはガーデンに入ってから初めてだ。仕事に戻った時を想像すると少し怖い。
ガーデンの快適な暮らしに比べたら雲泥の差ではあるが、野営のようにテントや野宿ではないし寝床もあるので、この状態を例えるならリノアが前に言っていたようにキャンプが近いだろう。
リノアは最初、風呂(といっても夕方までに温めておいた湯を張っただけの簡素なものだ)にシャワーが無いことが衝撃だったようだが、文句を口に出すことは無かった。
久しぶりに降り立ったセントラの景色は、あの日とさほど代わり映えはしていなかったが、先生の家は以前の荒れ果てたものでは無くなっていた。孤児院時代のように完璧な復元には至っていなかったが生活に必要なあらかたのスペースは元に戻っていた。
いつの間に作ったのか、新たに掘られた井戸や小さな菜園もある。
ここに住んでいた時も菜園はあった気がしたが思い出が曖昧で自信がない。
何も無いここではきっと時間を持て余すかと思っていたが、シンプルな生活はやることが意外にもあって退屈はしなかった。今時、洗濯だって手洗いなのだから。
リノアの隠れていた才能も発見した。
昨日、試してみるかと誘った釣りが思いのほかハマった。幼い時分、誰かさんが使っていた灯台近くの釣り場へ赴いた。彼女の方が形の良い魚を釣り上げた時は、少し…どころではなく凄く悔しかった。
きっとガーデンへ帰ったら、みんなに自慢するんだろうな。
噂では、この家の再建にサイファー達が関わっていると聞いたが、まだ真実なのか定かではない。折を見てそれとなく聞いてみようと思っているが、彼らが口止めを頼んでいる可能性もあるから、先生は話してくれるかどうか…。
「リノア?まだ寝てるのか?」
一通りのやるべき作業を終えて部屋に戻ると、真っ白なシーツに埋もれるように眠っているリノアはまだ夢の中で遊んでいるようだった。桜色の口元を少しだけ開いて膝を曲げて丸まっている姿が可愛らしい。クリーム色のタオルケットを顔の近くに集めて枕のように頭を乗せている。
彼女の眠るベッドへ浅く腰掛けて、ノースリーブシャツから露になった肩と、綺麗な黒髪から覗く形の良い耳をじっと眺めた。
冷房が無いけれど、さほど暑さは気にならない。時々入ってくる海風も爽やかだ。
ここに来てからも、リノアにこれといった変化は無い。
もしかしたら、エスタで起こった件はあの一度きりで終わりだったのかもしれない。けれどその後、リノアが魔法を使いこなせている気配は皆無だった。
あとは、あの羽根だ。
なぜ、花を咲かせることが出来たのだろう。なぜ、花なのだろう。
魔法が羽根に宿るなんてママ先生もオダインも初耳だと言っていた。最初は現場を目撃した訳では無かったので、泣いてしまった彼女には悪いが見間違えの可能性だってあると思っていた。
研究所も半信半疑でリノアが残したもので試したところ、何種類もの草花が生えたと聞いて驚いた。草花に規則性は無いようだった。
一度だけ、逆のパターンで花が羽根になったことがあると彼女から聞いたことがあったが、それは思念の形が視覚化されたものだとオダインが言っていた。
今回のケースとは違う。
「あんたの体に何が起きているんだろうな…」
単なる力を得る過程での出来事に過ぎないのだろうか、それともーーーー。
自分でも馬鹿な考えだと思う。一度見たきりの『あれ』が絡んでいるなんて証拠も確証も無い。
けれど、どうしても要因なのではという疑問が、頭の片隅にこびり付いた汚れのように離れてくれることは無かった。
自分はあの時、どうしようもなく疲れていただけなんだーーそう言い聞かせながら、リノアの性格通りの真っ直ぐな髪に触れた。
一掬いして、昔見た映画のように口元に寄せると、甘い香りが鼻を擽った。人工的な香りではなく、彼女そのものの香りだ。
それに触発されたのか、品性を疑われるような気持ちが湧き上がって、暇つぶしにと思ってここに一冊だけ持ち込んだ数独の問題を思い浮かべて急いでその厄介な心の火を消す作業に没頭した。
(寝込みを襲うなんて、流石にどうかしてるだろ)
非常時にも関わらず二人きりになると、ある瞬間にどうしてもそちらの方向に傾いてしまう。こんな自分にはほとほと嫌気がさす。
彼女の事になると興味も欲も果てしない。あんなにいつも満たされているはずなのに、いつの間にか欲しがって乾枯してしまう。
長年鍛えてきた自制心なんて彼女の前じゃ簡単に崩れると、ずいぶん前に思い知った。
きっと…こんな浅ましい心の中を覗かれたら、一生口を聞いてもらえないだろう。
「早く、帰れるとといいな」
自己都合の意味も込めて鉢の小さな頭を撫でながらそう言うと、想い人は寝返りを打ってにっこり笑いながらタオルケットを足の間に抱き込んだ。寝相と笑顔につられて自然と笑みが出る。
その時だった。
全ての窓へ一斉に風が吹き込んできた。
潮の香りとともに花の香りの混ざったーー慕わしく感じる匂いと共に、たくさんの花びらがふいに訪れたゲストとして舞い込んで来た。花吹雪は春だけではないのだと初めて気付いた。
「…くっ!」
普段目にしない光景に油断しきっていたのか、巻き上げられた埃が目に入ったらしい。左目を閉じながら視線を落とすと、リノアがうつ伏せに寝返ったのが見えた。
睡眠と風で髪が俄に乱れている。細い髪がふわりふわりと扇状にシーツへ広がっていく。
きっと寝ていてもこそばゆいだろうから整えてやろうと手を伸ばした——しかし、それは適わなかった。
(………!)
ほんの刹那の出来事だった。彼女の背中がぼんやりと光り、そこが盛り上がったように見えた。気付いた時にはリノアの背中には掌ほどの小さな翼が付いていた。服の上から生えているのが奇妙な感じだ。どういった仕組みなのだろう。
背骨を中心線に両手をぴったりと添えたような形のそれをまじまじと見ていると、それが合図だったかのようにリノアがぱっちりと目を開けた。
「あ…おはろ、スコール。二度寝したらスッキリしたよ」
「……もう、『おそよう』だな。リノア、今回はずいぶん可愛らしいのを出したな」
「え?なんの事?」
「背中。何も感じないのか?」
え?え?と、慌てながら飛び起きたリノアが腕を回して自身の背中の感触を確かめると、さっきとは打って変わってこれでもかという位大きく目を見開いた。
「これって、あれだよね?」
「リノアが起きる直前に。なにか前回と同じような気分とか前触れとか、あったか?」
「ううん…特には。あ、でも、今日みたいに眠たかったかも。ねぇこれ、触っても私にはまったく感覚が無いよ。不思議だね」
「そうなのか?試しに引っ張ってもいいか?」
「どうぞ」
リノアが俺に背中を向けてベッドにあぐらをかいた。邪魔にならないように髪を片側だけに流すと項が露になって、抑え込んだものが目を覚ましそうになった。でも今は、大事な確認作業がある。
試しに一枚引っ張ってみると、それはあっさりと取れてしまった。元々無かったものだし彼女の皮膚と繋がっていないのに、もいで彼女を傷つけたような気になって罪悪感が湧く。想像以上に軽くて先が透けて見える程薄い。エスタのときとはまた違った色形の羽根だ。
一件虫の羽根のようだが、綿羽(ダウン)のように柔らかいのでやはり鳥類の羽根に思えた。
「今、一枚抜けたが…痛くなかったか?」
「うん、全然。それ、見せてくれる?」
首だけ振り返った彼女に手渡すと、リノアはそれを日の光に翳した。
「わぁっ!すごく薄い。透けてるよ!」
「この前とは違うな。それこそ鳥サイズだし」
「うん。あの時はもっといっぱいだったし、もっと真っ白で立派だった」
何度も羽根越しに外を見ていたリノアがポツリと呟いた。
「これ、全部取ってもらっていいかな?」
「背中のか?構わないけど…」
「もう一度、お花が咲くか見てみたい」
「そうだな。俺も直接見てみたい」
やっぱりどうしても引っ張る気にはなれなくて、鋏とバケツを持ってくると羽根を切り落としていった。
全部切り落とすと、不思議な事に翼を形成していた骨格が細かい光の粒子のように立ち上って消えていった。
一瞬のうちに普段と変わらない姿がそこにあった。
「リノア。今、羽根だけを切り終えたら、きれいさっぱり消えたぞ」
「羽根ごと消えちゃったの?」
「いや、羽根はやっぱり残ってる」
「へんてこだね。まるで野菜の収穫してるみたい」
「やさ…!リノアって、独特の表現するよな。そしたらこれは、食べられる草が生えるかもな」
可笑しくなって、つい吹き出してしまうと、自分で自分のことが面白くなってしまった彼女も、体ごと振り返って笑い出した。
二人してしばらく控えめに笑うと、彼女が両手を差し出してきた。
求めているものはすぐにわかったけれど、さっきの首筋を思い出してしまって一瞬怯む。
それを見逃さなかったリノアは、伸ばした腕を軽く振って催促してきた。
「ね、ハグハグ」
「…後にしないか?」
「どうして?やだ!今がいい」
予想通り不満顔をしたのを見ながら観念した。
これはもう言い逃れ出来ない。諦めて白状するしかないな。
「今、そんなことしたら」
「もしかして、したくなっちゃう?」
「おい、そんなストレートに聞くなよ」
「ふふっ。からかってごめんね。でも…よかった」
「え?」
「だって私の事、気持ち悪いって思われてなかったから」
彼女は照れながらふにゃりと笑むと、嬉しそうに両手を合わせた。
リノアは自分に自信が無さ過ぎないか?自分の魅力を全く理解していないフシがある。
こんなにも心を掴んで離さないのに。
「やっぱり、する」
「何を?」
「だから…ハグ」
「それだけ?」
「それ以上も、する」
数秒間きょとんとした顔をした彼女が、ややあって一層微笑んだ。
「素直なスコールって、かわいいね」
「………悪かったな」
やっぱりリノアにはかなわない。