————————大きな輝く翼を広げた彼女が、花畑に立っていた。

空と同化するような水色のワンピースを着て、強い風に吹かれながら空を見上げた。

その横顔が綺麗で見とれていたが、空に同化してしまいそうな程の透明感で一気に不安が押し寄せた。

彼女を呼ぼうとしたが、喉が張り付いてしまったかのようにかすれ声すら出ない。

鉛のように体が重くて足が動かない。力いっぱい手を伸ばしても彼女に辿り着けない。

彼女が振り向いた。深い笑みを浮かべて、何かを呟いた。

風の音が強くて声が聞こえない。けれど口の動きでその五文字がはっきりと分かった。

彼女は、笑いながらどんどん遠ざかり………

 

空には一面の、羽根、羽根、羽根—————

 

 

(リノア……リノア、行くな…!)

 

 

 

 

 

 

【0628(2)ーaislamientoー】

 

 

眠る気にもなれずにソファに寄りかかっていたうちに、いつの間にか目を閉じていたらしい。

そっと肩を叩く感触にハッとして体を起こすと、その動作に驚いた顔をして手を引っ込めたリノアが立っていた。

 

「ご、ごめんなさい。うなされてたから…」

「あ、ああ。すまない、ちょっと…うとうとしてた」

頭を振って一度深呼吸してから、心配そうに自分を見ているリノアに無理矢理笑ってみせて、両手を広げた。

 

「スコール?」

「迎えにきた」

表情がぱっと明るくなったリノアが座っている俺を跨ぐような格好で胸に飛び込んできた。ソファは、突然二人分の体重を受けて小さな悲鳴のような音を立てた。

 

見ていた悪夢が冷や汗となって背中を伝っていたが、その不快感を体から追い出すようにしっかりと抱きしめた腕に力を込めると、彼女も迷わず回してきた腕をギュッと強めてきた。

離れて数日しか経っていないのに、ひどく懐かしい気持ちになってリノアの髪を撫でようと手を上へずらそうとして気付いた。

…昨日見た翼が、ない。

 

「朝起きたら、消えてたの。羽根は…残ってるけど」

背を撫でる指が驚きで跳ねたのを察知したリノアが、震えるような小声で耳元に囁いた。身じろぎして目線を合わせると、彼女の瞳が一気に潤んだ。

心と一緒に鼻と頬を赤くして、無理に笑って、懸命に泣くのを堪えている顔だ。

言葉に出来ない感情が胸から迫り上ってきて、奪うように唇を重ねた。

 

しばらくお互いの存在を確かめ合うように浅く深くキスを繰り返していると、リノアが切なげに微笑んで目を閉じた。

閉じた瞬間、小さな涙がポロリと落ちて彼女の顎先を濡らした。

塩分を含んだそれを人差し指で掬うと、サラリとした感触を残して俺の皮膚にあっという間に馴染んだ。

 

「あのままだったらどうしようって…怖かった」

いつの間にか二人の中で当たり前になったキスの後に、胸に頬を寄せてきたリノアが呟いた。少しでも安らかな気持ちになれるように彼女の髪を何度も梳いて、横目で窓を見上げた。

壁にかかる時計は、まだ人々が動き出すには少し早い時間。

部屋に差し込む朝日は、エスタ独特の天候調節システムのせいで弱々しく差し込んでいたが、その光を弾くように床に落ちている昨日の羽根がぼんやりと淡い光を放っていた。

 

「リノアが、天使にでもなったのかと思った」

半分本音だった。まだ気持ちは、地に足がつく感覚を取り戻していない。リノアが整った顔をして眠っていたから余計にそう思ったのかもしれない。

昨日の光景はまるで絵画や夢のようだった。腕の中の確かな温もりだけが、確かな存在を示してきた。

 

「わたし、スコールに嫌われちゃったらどうしようって、それしか考えてなかった」

「なんでまたそんなこと…」

「だって、あんなだったら一緒にお外歩けないだろうし、お部屋羽根だらけにしちゃって…ベッドだって占領しちゃうよ。きっとハグだってちゃんと出来なくなるもん」

本当はもっと深刻な事も考えていたかもしれないが、リノアはまた泣きそうな顔をしながら、懸命に自分は悩んでたとアピールしてきた——けれど、けれど。

 

笑いを堪えるのを我慢出来なかった。

こっちは何時間も凶事も含めてあらゆる可能性やそれに対する対策を考え悩んでいたのに、当の本人が最終的に考えていた事がこれとは…!

 

「…ッ!クックッ…!嫌われるというよりもリノアが困ることばかりじゃないか」

「ひどい、笑うなんて。すっごく悩んでたのに」

「その割には口開けて寝てたぞ」

「そ、そんなこと!ねぇ、嘘でしょ?」

もう起きているのに、慌てて両手で口元を押さえたリノアが愛おしくて、もう一度強く抱きしめた。

 

やっぱり、リノアはリノアだ。何も変わらないじゃないか。

鼻の最奥のツンとした感覚が次第に涙腺を刺激してきたが、それを悟られたくなくて彼女の首筋に顔を埋めた。

言葉を出そうとすればすぐさま嗚咽になりそうで、浅い呼吸で必死に取り繕った。

 

「スコール?どうしたの?……泣いてるの?」

「眠いし、腕が痺れて固まっただけだ。暫くしたら治る」

「…そっか。じゃ、このままでいてあげる」

彼女の言葉でようやく現実へ戻って来た感覚を失いたくなくて、エルオーネからの内線がかかるまで、俺たちはしばらくそのまま動かなかった。

 

 

 

***

 

 

 

「………で、おじゃるよ」

「なぁ、キロス。俺イマイチわかんねーわ」

真剣な話をしているのにこの態度はいただけないが、今回ばかりは向かいに座るラグナの理解力の無さを責められなかった。

俺もリノアも…いや、ここに居る殆どが話の内容の全てを理解するのに時間がかかったからだ。

ナントカ理論や論文を持ち出されたところで素人に分かるはずも無い。

 

「コホン…大統領が失礼した。要するに…リノアさんは、なにかがきっかけとなって魔女の力が完全に覚醒する途中である、ということですか?」

「簡単に言うとそうでおじゃる。補佐官はやはり、誰かと違って賢いでおじゃるな」

集められたメンバーは俺とリノアを除けば6人。

研究所の会議室に集められた俺たちは、中央に座るオダインの言葉を反芻していた。

 

相も変わらず怪しい出で立ちのオダインの話でおおよそ分かったことは、魔女の力には奴が知る限り二段階あるということだった。

リノアの場合、ヴァリーのような極限状態もしくは『相当の無意識』に支配されない限り魔法が発動しないらしいが、これはあくまでも第一段階。第二段階に覚醒してしまえば、意のまま呼吸をするように魔法を扱えるようになるらしい。

過去の魔女を記した書物によると、生まれつきその段階を飛び越えた者、ある日突然覚醒する者もいればリノアのように徐々に覚醒に至る魔女もいたようだ。

しかし、覚醒途中のケースは残念ながら詳細な記録としては残っていないらしい。

 

「文献によれば、覚醒途中の魔女は周りの影響を受けやすいから扱いが難しく、おまけに悪しき魔女になる可能性を秘めているとしか書いていないでおじゃる」

「本人の意思に関係無く…なのか?」

過去の記録がないのだから仕方ないとは思いつつも納得いく話ではなく、つい口を挟んでしまった。

捨てたはずのゴミがいつしか手元に返ってきたような気分になって、自分でも眉間に皺が寄るのが分かった。

今まで幾度となく『魔女には騎士が必要』と言われ続けてきたのに、この状況で、こういう時に役に立たないのかと思うとやり場の無い怒りが込み上げてくるのを抑えられなかった。

誰かにこれをぶつけてしまえば、ただの八つ当たりになるだろう。

自分がリノアの為に何も出来ないかもしれない現実が嫌なだけだ。

 

「無論、本人の心のありようは重要でおじゃるが、強大な力に飲まれて悪しき魔女になる場合も十分に考えられるでおじゃる。3人の魔女の力を継承してるこの娘がどこまでその力に耐えられるか…それは誰にも分からないでおじゃる」

「最悪の場合は…」

オダインの横に座っていた研究員がごく小さく呟きかけて、慌てて言葉を飲み込むのが見えた。

 

(ふざけるな。聞きたくもない、そんな事……そんな事させるわけないじゃないか)

リノアの手が、研究員の言葉を耳にして細かく震えだした。顔が紙のように白い。

そっと手を重ねて指先が冷たくなっているそれを握ると、彼女は視線を合わせてきてぎこちなく微笑んだ。

 

「だからここで研究するでおじゃる!悪しき魔女にならないように、しばらく隔離するでおじゃる」

ただでさえ置かれている状況にリノアは傷ついているはずなのに、ここにきてまだそんな事を。

そうだ、元々こいつは人の心なんて端から気にしない奴だった。何を言っても無駄だろう。

もし俺が付きっきりで傍にいたとしても、こんな所にずっといたら参ってしまうはずだ。

話なんてもういい、彼女を連れて帰ろう——そう決意した時、ラグナが軽く右手を上げた。

 

「いや…そんな監禁まがいの非人道的な行為は絶対ダメだ。そもそも彼女は、バラムガーデンを除いて他国の長期滞在は禁じられている。もしここに留めるなら各国議会代表の承認が必要になるしな。だがそんな時間はない。…ま!そういう堅苦しい理由云々抜きに、リノアちゃんに負担を強いたくないしな」

図鑑で見た爬虫類を思わせる首元を震わせながら、睨みつけているオダインの目を笑顔でかわしたラグナはそう言うと、一瞬だけチラッとこちらをみてウインクをした。

 

以前、キロスから非公式の場で、ラグナ個人は魔法の研究に関することには消極的な考えだと告げられたことがある。

ただ、魔法を持たない側の人間の不安や恐れを取り除くには『知る』ことは必要だとも言っていた。その為の研究だとも。

だから、研究をするにしても対象者の心に寄り添えない案は、予算の段階で否決させているらしい。ラグナなりにオダインにはブレーキをかけてくれているらしかった。

 

「ただ、また同じような事が起こるかもしれない。このままにも出来ないのはリノアちゃんもわかるよな?」

「はい」

まだ少し落ち込んでいるようにも見えたが、ようやく手の温もりを取り戻したリノアは、ここにいる全員に聞こえるようにはっきりと返事をした。

その横顔はとても強く、そして儚く思えて、場が場なら腕の中に抱き込んでいただろう。

 

「それで、私が呼ばれたんですね」

リノアの隣で話を終止見守っていたママ先生が、ラグナに視線を向けた。

話の最中、終止俯き加減だった先生は自責の念にかられていたのだろうか——発した声にいつもの艶が無かった。

 

「そうです。セントラに彼女を暫く置いて欲しい。あの辺りなら人は殆ど住んでいないと聞きました。言いにくいが、彼女の状態を他国に知られたくない。もう少しで魔女への『縛り』が緩和される方向にきているのに、この状況はあまり芳しいとは言えない」

 

そうだ、今年の秋に各国の代表を集めた会議が開かれ、リノアの処遇を再検討する事になっていたんだ。

エスタの上院議員が仄めかす程度の情報をこちらに提供してくれた時は、今よりはかなり緩和される方向に思えた。

きっとこの状態を知ったら、今まで彼女が耐えてきた事が水の泡になりかねない。

『いつかきっと』を信じてきたリノアにとってそれは、とても辛く厳しい現実だ。

 

「分かりました。それ位しかお役に立てずに申し訳ありません。…リノアさん、ごめんなさいね。あなたの状態の事、私はかつての魔女からは口伝えされていないのです。私が継承した時は、既に魔法の扱いには不自由を感じていなかったし」

「いえ、お気になさらないで下さい。こちらこそお世話になります」

「スコール、シドにはこの事を話しておきます。任務の調整をしてもらいなさい。出来る限りリノアさんの傍に」

「はい、先生」

「あ〜、それには及びません」

ラグナがまた右手を上げて視線を引きつけた。オダインの時の張り付けた笑顔とは正反対の笑みで俺へ視線を向けてきた。

真面目な中に何か含みを持たせたような顔だ。

 

「クレイマー夫人、彼には新しい依頼をガーデンへお願いしていますので御心配なく。スコール司令官、じきに学園長から辞令が来ると思うが先に話そう。これから行ってもらう任務は『魔女リノア』の護衛及び経過観察を逐一報告してもらう。任期は無期限、状況が落ち着くまでだ。こちらでも彼女の変化の原因を今一度研究所に精査させる。まだ調べれば出てくる事があるかもしれないしな。エル、これを渡してやってくれ」

(ラグナが『迎えにきてくれ』って言った本当の意味はこれだったのか)

向かいのテーブルのラグナの隣に座していたエルオーネは、受け取った書類らしきものを俺の元まで持ってきた。バラムガーデンの紋章とエスタの国旗が印字されているものが一部ずつ。紛れもない公式な文書だ。

 

「契約書よ。学園長さんに渡す時間が無いから代理であなたにサインしてもらいたいの。さっきシド学園長の許可は得たわ」

受け取った書類に一通り目を通してから、左側に予めしてあったラグナのサインの横に倣ってサインをそれぞれ書きつけた。

目に留まった任務レベルはSクラス。『国際社会に極めて影響を与えるもの・国家存亡等最重要案件に含まれるもの』のみに付けられるレベルだ。実際にこのレベルの契約書を目にするのは初めてだ。

 

「あとはキロス、詳しい説明をしてやってくれ。俺、もう喋り疲れたぜ…」

「ラグナ君、もう少し緊張感を持ちたまえ。仕方ない、私から。…この間、緊急時が予測されるし不便な生活を強いる事になるので、一時的にラグナロクをバラムガーデンへ貸与する事にしました。勿論、任務完了までの諸費用はエスタが取り持ちます。イデア殿の家には衛星通信機を一台、置かせて頂く。あと、ここは確実に守ってもらいたいのだが、リノアさんの状況をここにいるメンバー以外には他言無用で。君らの信頼に篤いSeeDの仲間にも出来る事なら極力控えて欲しい。こういう事は何がきっかけで漏れるか分からないのでね。万が一、他国や第三者が魔女の行方を知ってしまった場合、病による長期静養と説明をして欲しい。…スコール君他に質問は?」

「無期限と言っていたが、リノアのこの状況はどのくらい続くかのメドも文献には載っていないのか?」

「……五ヶ月安定しなかった魔女がいると書いてあったが、それよりも長い期間そうだったと書いてあるものは無かったでおじゃる」

ここまでラグナが用意周到だとは予測出来なかったらしい——オダインは萎んだヒルガオのように弱々しく答えた。

もしオダインの調べる通りそれが最長記録だとすると、五ヶ月間はセントラでの生活になる。俺はまだしもリノアには負担になりそうに思えた。けれど、リノアはなぜか少し嬉しそうだ。頭を寄せて俺がやっと聞こえる程度の小声で囁いた。

 

「私の事でごめんね。でも、ちょっと嬉しいかも。だって、二人して長いお休み貰ったみたいで。キャンプみたいじゃない?」

 

 

 

 

————あきれた。

切り替えが早いと言うか何と言うか。

ああでも、もしかしたら、俺の為にわざと嘘を言ったのかもしれない。

けれど確かに、リノアの言葉でどこか救われた自分がいた。

 

気の利いた返事をしようと思ったが止めた。

代わりに彼女の頭を軽く小突くと、リノアはまた嬉しそうな顔で笑ったのだった。

 

 

 

 

 

 

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