【0628(1)ーBruja dormirー】
日没きっかりに到着したラグナロクに乗り込んで、エスタに到着したのは日付が変わった深夜だった。エアステーションから迎えに来てくれたリニアカーの運転手に礼を言って研究所の扉をくぐると、淡いグリーンのスーツを着た女性が待っていた。
エルオーネだった。
彼女は俺を見つけ、やおら椅子から立ち上がると手を軽く振って自分の元へ招き寄せた。
「遠いのにご苦労様」
「いや…。おねえちゃんその格好は?」
エルオーネのスーツ姿なんて見た事が無かったので思わず訪ねてしまった。自分の身なりを改めて眺めた彼女は、やっぱり似合ってないのかしら?と独り言つ。
「これね、一応これでも大統領のファーストレディ代理だからちょっと仕事してきたの。それよりもリノアちゃんの事だけど、歩きながら話しましょう」
大丈夫だと聞きながらも、ラグナロク内でも何パターンもの事態を想定していた俺は、一気に気を引き締めた。
そんな俺の表情を見て、彼女はわざとらしくクスッと笑った。直感で無理に笑ったのだと分かった。
まさか、元気なんて言ったのは嘘なのだろうか。
「…リノアは?」
「そんな暗い顔しないで。リノアちゃんは大丈夫よ。最初は私達も彼女もすごく動揺したけど今は落ち着いてるから。博士も今はまだ問題無いって言ってるし。あ、あと彼女結構大胆な服着てるけど気にしないであげてね。今はそれしか着られないから」
「…?最初に大統領から電話があった。言ってる意味が10%も理解出来なかったが」
「あら、おじさんはちゃんと説明しなかったのね。ま、電話はだいたいそうだけど。キロスさんもいつも苦労してるわ。おじさんが言いたかったのは…あ、着いちゃったわね。説明しようと思ったけど直接会ってもらったほうが早いかな」
エルがここの研究員になってもう一年を過ぎた。
彼女がラグナに直訴してオダインの研究に協力しがてら自身も研究者としてここに籍置くようになったのは、あの戦いが終わった直後の話だ。ここに在籍を決めた直前に一度会ったが、「もう根無し草にならなくて済むし、守られるのは飽きた」なんて悪戯っぽく目を細めたのが忘れられない。きっと、エルオーネなりの前の進み方がこれだったんだろう。
彼女は研究室手前のリノア専用の部屋の扉の前まで来ると、手慣れた手つきで設置された端末を操作し始めた。
当然なのだろうが、中からは開けられないセキュリティになっているのを見ると、リノアの人柄に関係無く未だ魔女への『恐れ』が見て取れて胸の奥が重苦しくなった。
端末に目をかざし、網膜認証を終えると音も無く扉が開いた。部屋の中は外の光が入っているようだったが薄暗かった。
「多分、疲れて眠っちゃってると思うけどそばにいてあげて。簡易ベッドも用意してあるから。あなたもびっくりすると思うけど私達よりは見慣れてるんじゃないかしら?」
「見慣れてる?」
「ヴァリー状態。博士の見解だと、その状態が実験後も続いてるって言ってたわ。元々本来、魔女の力はリノアちゃんみたいに『開け閉め』出来なくて常に開いている状態の方があるべき姿らしいのよね。だから博士はあまり驚かなかったわ。けど……」
急にエルが口ごもった。数秒の沈黙の後、疲れてるでしょうから話は明日にしましょ、と微笑んだ彼女は『おねえちゃんには逆らえない俺』をうまく利用しているようで少しだけずるいと思った。
心の声が顔に出ていたのか、彼女が申し訳なさそうに瞳を閉じた。
「ごめんなさいね、私だとうまく説明が出来ないかもだから。博士から改めて説明してもらうから。念のためリノアちゃんにはバングルを嵌めているけど、魔法が発動する兆候は全く無いから安心して。朝になったら迎えにくるわね。明日になればイデア先生もお見えになるし」
「ママ先生が?そうなのか?」
「ええ。これからのことを相談しないといけないから。何かあったら内線で当直の研究員を呼んで。みんなすぐに駆けつけられる所に居るから。じゃあまた明日。……もし、彼女が目覚めても、あまり驚いた顔はしないであげてね」
「…分かった。ありがとう」
入り口にある調光照明のスイッチ操作してほんの少しだけ明るくしてから部屋に足を一歩踏み入れた瞬間、彼女特有のまろい気配を感じて彼女が間違いなくこの部屋ににいるのを感じた。
エルオーネの言葉で、現段階ではリノア自身が危険に晒されている訳では無いというのは理解出来た。けれど何か別の理由で非常事態が起こっているのは事実のようだ。
(あいつ、もしかして壁の色をピンクに変えたのか?)
久々に訪れたリノアの広々とした滞在部屋は、彼女の部屋そのものに変わっていた。絨毯も毛足の長いものになり、ピンクのソファや白いテーブルと鏡台、彼女が気に入っているぬいぐるみや天蓋付きのベッドまで備え付けてあった。その光景は、森のフクロウ所有のアジト列車や戦いの後に一度だけ訪れたカーウェイ邸の彼女の部屋を彷彿とさせた。
(…なんだ?)
足下に違和感を感じて見下ろすと、何かを踏みつけていた。拾い上げると、小さな羽根だった。
よく見れば、部屋中に何枚もの羽根が散らばっていた。どれも僅かな光を反射して輝きを放っている。枕に穴でも開いたのだろうか。
ベッドから彼女の健やかな息遣いが聞こえてきた。控えめにリノア?と声を掛けてみたが反応はない。やはり眠っているらしい。
(………?)
なにかがおかしい。彼女の寝所に近づくにつれて危険や焦燥感を感じたように鼓動が早鐘を打つ。呼吸が浅くなる。
ヴァリーが続いてしまっていると言っていたからそのせいで空気が変わっているのだろうか…。
あんなにも彼女に会いたかったのにベッドに近づくのを躊躇してしまう自分がいる。
利き手をグッと握りしめ迷いを振り払い、リノアを起こさないようにそっと天蓋を捲ると—————彼女の姿に息を飲んだ。
そこにあったのは、一面の羽根が埋め尽くす世界だった。
羽毛を敷き詰めたベッドに寝かされているかのように、リノアはうつ伏せになって眠っていた。
普段なら絶対に着ないであろう背中から腰まで深くスリットの入った扇情的な黒いドレスを着ていたが、寛いだ寝顔も肩下まである真っ直ぐな髪もすらりと伸びた手足もいつも通りのリノアだった。
唯一の違いといえば、肩甲骨辺りに力を解放した時のような翼が生えていた事だ。
だが既にそれは、視覚触覚で判断しても翼そのものだった。
淡く光る羽翼を輪郭に白い羽根が幾重にも重なり、呼吸に合わせてゆったりと上下している。
時々はらり、はらりとそれが抜け落ちて雪のようにベッドへ降り積もった。
紛れも無く部屋に落ちているものと同じだった。
美しいと思った。
いつか本で見た天使の絵とリンクして、感嘆と同時に畏れにも似た気持ちが沸き上がった。
「本当にリノア、なのか?」
自分で発した言葉が遠くに聞こえる程、目の前の光景が正直信じられなかった。
普段のヴァリーならあの羽根に触れることは適わないはずなのに。
この状態に問題無いのだろうか…まさか、魔女特有の病の可能性はないのか?そもそもなぜこんな事になった?
様々な疑問が頭を掠めて急に目眩を起こしそうになって、額を手で覆って目を閉じた。
「一体何が…」
輝く翼は一瞬だけ、トラビアで見た白い鳥を脳裏によぎらせた。