「葉っぱの匂いがする…」

「奴らの体液が付いているのかもな。近づかない方がいい。シャワー浴びてくる。すぐ上がるから待っててくれ」

「大丈夫だよ、ずっと待ってるから。ゆっくり入ってきていいよ」

 

日が落ちてからだいぶ経ってしまったが、ガーデンに帰還してすぐにリノアを部屋に呼び出した。

討伐自体の時間よりも、死骸の処理と道の復旧作業に応援を呼んでいたのでずいぶん時間を食ってしまった。

本来なら部屋を訪れるべき立場なのだが、薄汚れた格好で彼女の部屋に入るのは気が引けてしまったのだ。

落ち着いてからでも良かったのかもしれないが、心がどうにも焦っていて、その選択肢に気付いたのはリノアに連絡を入れてからだいぶ経ってからだった。

いつもよりも熱めの湯で手早く身体を洗い流して、部屋着に使っているシャツとハーフパンツに着替える。

頭を拭きながら部屋へ戻ると、リノアはベッドに腰掛けて本棚のテキストを物色していた。

 

「そんなの読んでも面白くないだろ」

「そんなことないよ。こんな難しいこともやってるんだね。SeeDってやっぱり凄いね」

「このレベルならどこの学校でもやってる」

彼女から物理学の本を取り上げてパラパラと捲る。どこをどう見ても普通のテキストだ。

リノアが笑いながら、俺からまたそれを取り上げた。

 

「私はね、お母さんが亡くなってから専属の家庭教師だったんだけど、こんなに難しいのやってなかったよ。偉い人のお嫁さんになる為のスキルばっかり磨かされてたんから」

「本当に箱入りだったんだな。例えば?」

「語学、教養、ピアノとか。体を動かすのはダンスの練習だけ…頭も良くないし不器用だし、退屈だったからいっつも抜け出してた。最後は我慢出来なくて飛び出しちゃったけど」

 

リノアが昔話をする時は必ず淋しそうな顔をする。彼女は母親が亡くなってからの事はあまり語りたがらない。

そんな彼女の気持ちは、形は違うかも知れないが理解できるものだった。G.F.の影響で忘れてしまっていることも多いが、淋しさや虚無感は今もはっきりと思い出せる。

(そういう所が結構似てるんだよな、俺たち)

心の傷は同じ気持ちを味わったものしか分からない感覚だ。もしかしたら、そんな部分にも惹かれたのかもしれない。

 

「それよりも話って?もしかして今朝の事?ならもういいの。本当にごめんね」

「いや、もっとちゃんとリノアと話すべきだったんだ」

「何を?」

「アーヴァインから聞いた。セルフィに……その…からかわれた事」

 

リノアがぎくりとして目を逸らした。同時に顔が紅潮している。テキストを持っている指先が力を込めたせいで白とピンクのコントラストを浮かべていた。

(やっぱりこの事が原因だったのか)

どこからどう話せば良いのか。ほんの数秒の間だったが、重苦しい沈黙が部屋の影を色濃くした。

耐えきれなくなったのか、先に口を開いたのは彼女の方だった。

 

「呆れちゃうよね『そういうこと』を気にしちゃうなんて。はしたないし。スコールの事が好き、それで十分なのに」

「そんなこと、ない。自然な事だ」

座っている彼女の前にしゃがみ、リノアの指に触れてゆっくりと力を抜かせた。そのままテキストを脇に追いやって両手を握りしめた。

柔らかく暖かな手だ。この手すらずっと見ていても飽きる事が無い。

 

「俺が、自分に呪縛をかけていた。勝手に魔女と騎士のあるべき姿を考えて、そういう関係になったらどうなるか不安だった。二人の事なのに、リノアを置いてきぼりにしていた」

「そうなの?」

「いや、違うな。それは建前だ。本当は、もしリノアが俺を必要としなくなった時に…俺が離れるなんて出来ないからだ。リノアに辛い思いをさせる」

 

こんな俺をリノアはどう思っただろう――こんなにも弱くてずるいこの男を。

結局、臆病な俺は未だに未来を描く事が怖いのだ。こんな自分はもう捨てたはずだったのに。

 

「ひどいなぁ、信用されてないみたい。スコールから離れるなんて…そんなこと、絶対にないのに」

「そうだよな、すまない」

見上げたリノアの顔は朗らかな笑みで満ちていて、慈愛そのものだった。

 

「セルフィに言われた時、スコールは私の事を大事にしてるから、えっちぃことしないって思ってた。でも、最近そうじゃないんじゃないかと思って…。そういう話題を避けてるように感じたから。きっと私に魅力が無いから、そういうことしたくないんだと思ってて…」

「もうあんなにキスしてるのに?それこそ絶対にないな、こんなに可愛いのに」

「か、可愛いって…」

俯いたせいで髪が影になっているが、困惑したように眉を寄せたリノアがさっきよりも頬を染めているのは分かった。

(そういうのが可愛くて困るんだ。無自覚は罪だぞ)

 

「もう一つ気になってた事がある。リノアは育ちがいいから、そういう事は…」

結…―――—頭に湧き出た言葉を慌てて飲み込んだ。俺は今、何を言おうとした?

勝手にドギマギしているこちらに気付かないリノアが静かに笑った。

 

「育ちっていっても、たまたま軍人の娘に生まれただけで、中身は普通だよ?全然お嬢様じゃないのはスコールだって知ってるでしょ?」

「いや、リノアは気付いていないかも知れないが細かい所作に育ちは出るんだ。教育だって一般家庭とは全く違う。物を取る動作一つとっても成金と名家では雲泥の差がある」

「そうなの?スコールは何でも身のこなしがスマートだと思うけど」

「徹底的に訓練させられるからな」

「そっかぁ。スコールは本当にかっこいいもんね」

と、リノアが握られていた手を引っ込めたかと思ったら、おもむろに屈んでいつの間にか俺の肩から落ちていたタオルを拾い上げた。

 

「はい。ちゃんと拭かないと風邪ひいちゃうよ」

「ありがとう」

タオルを受け取ろうとしたが、右手が宙で止まってしまった。

リノアがいきなり俺の頭をガシガシと拭きだしたのだ。

 

「リ、リノア?!」

「えへへ~!拭いてあげるねっ!」

「あ、ああ(…ちょっと痛いな、俺はアンジェロじゃないぞ)」

中腰で頭を前に突き出す形になったのでバランスを取ろうとベッドの縁に手をかけた――と、思ったら、あるべき場所にそれはなく、思いっきり手を滑らせてバランスを崩してしまった。

 

(………!)

「キャッ!」

 

 

気付いた時には既に遅し。思いっきり彼女を押し倒し、胸元に顔を埋めてしまった。

 

「わ、悪かった!痛くなかったか?!」

ガバッと素早く飛び起きて離れた。倒れた驚きで胃がひっくり返ったような気分だ。それとはまた別の衝撃で心臓の音がまだバクバクしている。

カーッと顔に血が上るのが自分でもすぐに分かった。耳がもう熱い。リノアの返事を聞くのを待てず、思わず彼女に背を向けて口元を手で押さえた。

リノアの――想像以上に柔らかく張りのある胸の感触と、抱き寄せた時より幾分湿度を孕んだ香りを初めて知ってしまった。

予期しなかった事とはいえ、今まで必死で眠らせていた欲求を確実に覚醒させてしまった。

 

(おい何考えてるんだ!今日は話し合うだけなんだぞ!とにかく鎮まれ!)

今日だけでこんなにめまぐるしく変化する状況に頭がショートしそうだ。

呼吸を整えてリノアに向き直ると、倒れた時と同じホールドアップのような格好のまま天井を見上げていた。

 

「おい、リノア、大丈夫か?…まさか、頭を打ったのか?」

「…………と思ったの」

顔を真っ赤にして泣き出しそうな表情――というよりも、恥ずかしくでたまらないといった風情のリノアが唇を噛んだ。

 

「思った?」

「スコールに倒されたとき、そのまま…いいと思ったの」

ゆっくり起き上がり、ひどくまっすぐに見つめてきたリノアのその言葉は、理性を打ち破りそうになる程の破壊力だった。

 

踏み出して、そのままリノアを抱きしめた。もう迷いなんて吹き飛んだ。

何度目か分からない抱擁に身を委ねながら、大人しく収まっているリノアに真情を吐露した。

 

「さっきの話も本当だが、心がきれいなリノアに、こんな感情持っちゃいけないと思ってた。汚してしまうような気がして」

「そんなこと」

「でも、今日はだめだ」

「え……」

失望と淋しさを滲ませた瞳で見上げられて、苦笑してしまった。

抱いていた手を両頬へ滑らせて、そのまま人差し指で柔らかい耳朶に触れた。

 

「そんな顔しないでくれ。俺も辛いんだ。ただ…だめなんだ。あれを用意してない」

「あれ?」

(とぼけてるわけじゃないよな、リノアは)

仕方なしに教える事にした。照れるから、顔を見られないように耳元に口を近づけた。

 

「今、子供が出来たら困るだろ」

「あ」

「だろ?」

「うん。今はまだ、困るかも」

「4日だ」

4日?と、いきなり出てきた言葉に不思議そうにしているリノア顎に手をかけ上向かせた。彼女にしか使ったことのない掠れた声で宣言した。

 

「明日からドールで任務なんだ。次に会えるのは4日後だ。帰ってきたら、俺は…リノアを抱く。いいか?」

「……うん」

消え入りそうな声で同意したリノアの顔が一層赤く色づいた。羞恥に耐えきれなかったのか目を閉じて、ほう…と、小さく息をついた。

その息を奪うように、今まで必死に隠してきた想いを分からせるように、彼女の唇を塞いだ。

今までとは明らかに意味の変わったキス…の合間、リノアが笑うように口角を上げた。

 

「何?」

「だって…我慢しすぎ」

「悪かったな。死に物狂いで抑えてたんだぞ」

「かわいい」

 

(言ってくれるじゃないか)

お返しとばかりに、首筋に口付けてそのまま強く吸い上げた。

拒絶される事は無く、リノアはただ小さく喘いだだけだった。

赤いうっ血が小さな花弁のように一つ、彼女の白い首に色を添えた。

 

「ちょっと、こんなとこ…」

痛みでキスマークと分かってしまったらしい。熱に浮かされた顔のまま睨んできた。

そんな顔でもクるものがあって、目を逸らしてとぼける事にした。

 

「さっきの『契約』のサインだ。忘れずに済むだろ」

「スコールが帰ってくるまでのこと、なるべく思い出さないようにいようと思ったのに」

「そんなずるいことさせないさ。俺だけ思い出すなんて不公平だ……すまない、今日の夜中の出発なんだ。そろそろ送る」

「うん。ありがとう」

きっと彼女は、この印を見るたびに赤面して色っぽい顔をするに違いない。

願わくば、次に会う時に、その顔を見せて欲しい。隠さずに。

 

いつものように彼女の部屋の前で、いつものように手を上げて別れの挨拶をする。

閉まった扉の前で耐えていた熱い溜息を吐き出した。

 

 

 

恐ろしく長くて甘美な4日間の始まりだった。

 

 

 

 

 

 

 

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