パソコンと資料を交互に見続けてどのくらい経ったろうか。ようやくまとまった。
デスクに置いた腕時計を見れば、仕事を始めて3時間——午前11時ジャストを指していた。肘を引いて肩甲骨を引き寄せ、そのまま上へ伸びをする。凝り固まった僧帽筋が解れるのが分かる。
気分転換に立ち上がってすぐそばの窓を少し開けると、カラッとした心地よい風が部屋へ一気に吹き抜けた。この風が吹けば、夏に近づいている証拠だ。
ただ、この部屋にしては予想外な風の入り方に思わず後ろを振り返った。
この部屋に風が抜けるとすれば、ほぼ対角線上にある浴室の窓が開いているからだ。
そういえば、あっちにはリノアがいるんじゃなかったか?少し前に彼女が部屋に来てからずっと水を出したり止めたりする音が聞こえてくる。何をやっているんだろうか。
気になってそっちへ足を向けた。
リノアは浴室ではなく洗面所で前かがみになって腕を濡らしていた。生成りの木綿のワンピースを来たリノアは、訪れた時と違い珍しく髪を一つに纏めている。彼女がポニーテールにしているのを見るのは初めてだ。
露わになった細く皓い項と後れ毛にどきりとして視線が釘付けになる。鼓動が早まって胸の奥が熱くなるのがすぐに分かった。
が、真剣そのもののリノアを邪魔しては悪いと思い、燻ったままの自分の感情は見なかった事にした。
洗面所の向かいに備え付けてある洗濯乾燥機が脱水の為に低いモーター音とカタカタと衣類が回る音を立て始めた。
リノア、と声をかければ、視線は貰えなかったが上機嫌な声でなぁに?と返ってきた。
「洗濯してたのか」
「うん。さっき言ったよ。使わせてって。私の部屋だと、風通しがあんまり良くなくて」
「すまない。ちゃんと聞いてなかった」
「集中してたよね。大丈夫、気にしてないよ」
俺たちは普段、ガーデン内にあるクリーニングセンターを利用する為、滅多に服を洗濯しない。するとすれば、タオルや肌着ぐらいなものだ。
だから、洗面所で丁寧に何かを洗っているのはとても新鮮な光景だった。
「それ、クリーニングに出せば良かったんじゃないか?」
「うん、まぁ、そうなんだけどね…」
言葉を濁して手を動かし続けているリノアは洗面台の栓を引き上げた。ゴボゴボと勢いよく水かさが減って、ふわふわと揺れていた洋服が一気に圧縮されたかのようにぺたりと縮んだ。
「大事な服は自分で洗いたくて」
そう言って、見られたくなさそうに少しだけ持ち上げた服は、よく見れば先々週リノアにプレゼントした半袖ブラウスだった。
シースルーのように見えるが実際透けることはなく、夏の季節によく似合う涼しげなオフホワイトのそれを、彼女はとても気に入ってくれていた。
「そういうのって、自分で洗えるのか」
「うん。これ、シルクなんだけどね、洗えるの。なんと無く人任せにしたくなくって」
プレゼントした物を大切に扱ってくれているのを見て、グラつかない奴がいるなら教えて欲しい。
邪魔になるのを承知で、抱きしめようと腕を上げようとしたが、ピーッと言う無機質な音に阻まれた。
リノアは洗濯機から二つほど別の衣類を取り出して、素早くハンガーへ通してから、浴室にある衣類干し用のロープにかけていく。慣れた手つきだ。
「手慣れてるんだな」
「料理と掃除は苦手だけど、洗濯だけは大好きなの。簡単に達成感が得られるでしょ?」
ふふっと笑いながら、森のフクロウでは毎日自分で洗ってたよ、と付け加えてきた。
レジスタンスでクリーニングの常連というのは流石に聞いたことは無いな——想像以上にリノアはたくましい生活を送っていたのかも知れない。
「さっきのは脱水、しないのか?」
「シルクはタオルでくるくる巻いて水分取るんだよ。…スコール、仕事は?」
リノアに言われてようやく気付いた。そうだった、さっさと終わらせないと。
お互いがかみ合った貴重なこの時間を、ダラダラと仕事なんかで無駄にする訳にはいかない。
「あとは読み返してプリントアウトするだけだ。すぐに終わらせる」
「了解、スコール司令官。私も最後の1枚が終われば、任務完了です。あの、これ…これも洗えるシルクだったから、いいかな?」
彼女が持っていた服は、少しよれてしまっている黒のスタンドカラーシャツ——リノアがエスタへ言った際、俺に買ってきてくれたものだった。
明日クリーニングに出すつもりだったので、専用の袋に入っていたのを見つけたらしい。シルクだとは気付かなかった。
そうだ…色の割に涼しくて気に入ったから、リノアにも同じような服を、と思ったんだった。
贈りあった服が偶然にも同じ素材というだけで、嬉しいような照れくさいような、くすぐったい気持ちになる。
もし、これに乗じて「お揃いだな」なんて口に出したらリノアはどんな顔をするだろうか。
(…いつから俺はこんなロマンチストになったんだ?)
だが、一瞬浮かんだ疑問でそれは言葉として表に出ることは無かった。
「洗って、くれるのか?手が荒れるから無理しなくても…」
水が心地よい季節になったとはいえ、指先の赤くなっている彼女に、これ以上水仕事をさせるのは躊躇われる。
リノアの指先は皮膚が薄い。冬場は心配になる程カサついてひび割れて、しばらく治らなかった。いつかは治るよと、のほほんとしていた彼女に反して、こっちの方が気になって薬やクリームを買ってきたら、嬉しそうな顔をしながらもスコールは過保護だと呆れられた。でもそれは仕方が無い事だった。
治ってくれないと困るのは、俺の方だったから——俺自身が、リノアの指に触れていたかったからだ。簡単に言ってしまえば、不埒なエゴだ。
そのエゴかまた、今ので顔を出した。
「お願い、洗わせて。ホントはクリーニングに出すのが一番なのは分かってるの。でも…これも、大切な服だから」
掲げたシャツの襟元から覗かせた、縋るような目をしたリノアに二の句が告げなかった。
大切だと言った意味が、『自分が買ったものだから』という意味で無いのがすぐに分かったから。
服1枚で、こんなにも心を揺さぶられるとは思ってもみなかった。
自分の服を洗ってもらえるという事実が、とても感動的で暖かな気持ちになるなんて。
初めて与えられたこの気持ちをどう表現したら良いのか分からない。キラキラとした眩しさに自分の感覚が追いつけない。
どうして彼女は、自分の心を捕えて離さないのだろう。
穏やかな時間が急に、涙腺を刺激した。こんな事で泣くなんて、それこそ彼女に呆れられる。そもそも最近の自分は、おかしいくらいに感情の振り幅が激しすぎる。病気なんじゃないだろうか?
「…ありがとう。それ、お気に入りなんだ。丁重に頼む」
「了解しました!」
許可が下りたことと、お気に入りと言われた事が嬉しかったらしいリノアが、いつもよりも一際大きな声で敬礼した。
その太陽のような笑顔でなら、洗濯物なんかあっという間に乾いてしまうような気がした。
デスクに戻って一通り目を通し、手直しを施した後プリントアウトを開始した。これなら昼までに余裕で間に合う。
この仕事が終われば、よっぽどのことが無い限り、明後日の明け方まで任務はないはずだ。
外出届をダメ元で出してみようか——そんな事をぼんやり思いながら、水を飲もうと席を立ち上がった時だった。
「あっ、スコールだ…」
驚いたような声と同時に、慌ただしく水をパシャパシャさせる音が聞こえてきた。
名前を呼ばれて気になったので、どうした?と、もう一度顔を覗かせると、急に声を掛けられてびっくりしたのか、リノアが顔を真っ赤にして首を横にぶんぶんと振ってきた。
「な、なんでもないの!」
洗面台には件の黒い服が、ごく薄いブルーの水に緩やかに浮かんでいた。
「それ…」
「ごめん。い、色落ちしやすかったみたい。手早くやったから、もうこれ以上は落ちないと思う」
「そうか」
「な、何?」
明らかにリノアの様子がおかしい。服を気にする振りをして、俺と視線をわざと合わせないようにしている。
少しだけ間合いを詰めると、彼女は小さく息を飲んで、すかさず後ずさった。本人は顔に出さないように必死に取り繕ってはいるが、眉を下げて明らかに困った顔をしている。
無言の拒絶、に見えた。
頭の中では、自分が何かしたのでは無いかと、原因を追求する為に何通りものシミュレーションをしてみるが、イマイチ正解と思しきものに辿り着けない。
しかし、彼女を困らせている事は事実のようだったから、早々に謝ることにした。
些細なことで、これからの時間を無駄にするのは得策では無かったから。
「…すまない」
「なんで、スコールが謝るの?」
「困った顔、させたから」
今度はリノアが間合いを詰めてきた。濡れた手をそのままに、焦った顔で。
「ち、違うの!私が変なこと思っただけで…!」
「変なこと?」
「わ………笑わないで、くれる?」
間を開けてトーンを落とした彼女の台詞は、今までの経験上、十中八九笑ってしまう内容のものが殆どだったが、頷いて彼女が話し始めるのをじっと待った。
こっちの様子に諦めたリノアが、ブラウスの時と同じように手を動かしながら、話し始めた。
「洗った時、色落ちしたんだけど、黒いシャツなのに青くて…」
「?」
「最初はもう少し濃かった。だから、急いで洗ったんだけど…その青が」
うわずった声が、赤らんだ顔が、泣き出しそうな目が、あの熱を帯びた時間を連想させて一気にこっちの鼓動まで跳ね上げた。
すすぎを終えて丁寧にタオルで巻いてシャツの水分を取っていく指が、ピタリと止まった。
「その青がね、スコールの…瞳の色と、おんなじで」
「は?」
「自分が似合うと思ったシャツが、スコールと同じ瞳の色で染められてたのが…運命だと思えるくらい、嬉しくて」
ああ、それでさっき俺の名前を言ったのか。
彼女が言いたい事は、大方理解はしたけれど、やっぱり我慢出来ずにプッと吹き出してしまった。
一度吹き出したら、自分の音でますます笑いが止まらなくなってしまった。
「あ〜〜〜〜っ!やっぱり笑った!ひどい!すごく恥ずかしかったのに!」
「くっくっ…ち、違うんだ、バカにしてる訳じゃなくて…」
そう、バカになんてしてないんだ。シャツを洗いながらも俺の事を考えてくれてたことが嬉しかったし、それを恥ずかしがって泣きそうな顔で言ったリノアが、とてつもなく——。
「可愛いな」
臆面もなくそんな言葉が出てくる程、愛しくて。
照れ隠しに唇を噛んで睨んできた姿でさえ、いてもたってもいられなくなるくらい、抱きしめたくて。
さっきと同じように距離を縮めても、逃げようとしない彼女が、いじらしくて。
「だからリノアのことが、好きなんだ」
腕のなかへ捕えた彼女が驚いて見上げた顔に、影を落として奪った唇はいつもよりもずっと甘く感じられて、漠然と思っていた事がはっきりと脳裏に浮かんだ。
(そうだ、俺、すごく幸せなんだ)
甘い柔軟剤の香りも、風でゆらゆらと揺れる服も、濡れたままの黒いシャツも、抱きしめた確かな温度と質感を持つ愛すべき存在も、何もかもが自分の幸せを形成しているんだ。
きっと、奇跡はこういうことを言うに違いない。
「明日、ドライブに行かないか?洗った服を着て」
「行っても大丈夫なの?」
「誰も来ない穴場の海岸があるんだ。きっとそこなら許可が下りるはずだ。下りなくても連れて行く」
「こら、決まりごとは守らなきゃ。でも…嬉しい。ありがとう」
腕からするりと離れたリノアがバサリとシャツを振ってハンガーで吊るした。
白と黒のコントラストが風と戯れているようだ。
まるで、自分たちのように。
「リノア」
「ん?」
「任務完了お疲れ様」
「うん、ありがとう。スコールもお疲れ様」
「リノアから、いい匂いがする」
「そう?」
後ろから抱きしめて、甘い香りのうなじに頬ずりする頃には、別の甘美が手の届く位置に横たわっていた。
誘われるがままに、戯れることにした。
近場のシーツの海なら、許可なんて最初から必要ないのだから。