スコールが、明日の為にガーデンやバラム市街地周辺を一通り確認して帰路につこうとしていた頃には、日が大きく傾いて海岸一帯を赤く染めあげていた。海鳥が一羽、また一羽と寝ぐらに帰っていく様を見ながら雲ひとつ無い空を見上げれば、水色とオレンジのグラデーションを作っていた空が季節のせいか一段と高く感じた。

背中に感じる西から吹いている海風がいつもより弱い。いつもは強く吹くせいであまり感じる事は無かったが、弱い海風は身体に湿気が余計に張り付く気がしてあまり良い気分はしなかった。足取りが重く感じるのは、風のせいであって欲しかった。

 

ガーデンに戻ってからは、リノアが希望した明日のルートを頭でもう一度シミュレーションしながら、時間帯のせいか人気の無い静かな廊下を渡って部屋へ戻ると、考え事の中心人物が部屋で彼を待っていた。

淡いグリーンのシャツワンピースを着たリノアは、スコールが少し前に渡したスペアのカードキーをチラリと見せてはにかんだ笑顔を見せると、「おかえりなさい」と小さく呟いてから浅い角度で両腕を広げた。

 

いつものことになりつつあるのに、やはりまだ慣れる事は無い。その気持ちを苦笑に乗せて歩を進めたスコールが、ゆったり且つぎこちなくその腕の圏内に入ると、ギュッと体にそれが回った。スコールもそれに後押しされるような形で強く抱き返し、最近まで滅多に使わなかった『ただいま』の言葉を告げると、彼女は必ず甘えるように頬を胸に寄せ、彼は髪に鼻先を埋め……少しだけ屈まないとそれが適わない事に気付いて、彼は自分の背がまた少し伸びたのを知った。

抱きしめた時に生まれた外とは違う湿度。分子構造は殆ど同じはずなのに全く不快感が無い。

 儀式のようだ——リノアとの抱擁をスコールは常々そう感じている。

二人がふたりに戻る為の大切な儀式。バラバラだった鼓動や意識をパズルのように一つひとつ合わせていくようだ。

 

リノアが、『一連の流れ』を終えて早々、やけにはしゃいだ様子で、捲し立てるように話し始めた。

イデアと育てている花の事や下級生のイタズラ、アンジェロが彼女のパジャマを毛だらけにした事、小さな事が殆どだ。

普段なら話題に上らないものまでわざわざ話すリノアが、無理に話題を振りまいているのは誰の目にも明らかだった。

まるで何かが口から零れてしまうのを恐れるかのようだ。時々、電池切れのようにぷっつりと押し黙ってはまた話し始める。

その話題に時々相槌を打ちながら、スコールの胸は締め付けられる思いだった。

 

彼女のカラ元気の理由はとっくに分かっている。十日前、自身の手で彼女に枷を填めたあの日から。

理性で受け入れた事だとしても本心では幾度も泣き叫んでしまいそうになりながら、リノアも自分も今日までの日々をやり過ごてきた。

ふとした夜に現れた切なさを必死で押し殺しながら小さく震える彼女を、何度掻き抱いただろう。

明日の如何によっては、彼女は永遠に爆弾を抱えた籠の鳥になる。

仮にこれから籠は開け放たれたとしても、命の危険を感じながら常に遠くで誰かの目に曝されて生きなければならないなんて自由とはほど遠い。

あの時、何が何でも受け入れるべきじゃなかったんだ——彼女を抱きしめる度に後悔がスコール自身を苛んだ。

それを知ってか知らずか、そんな時のリノアはいつも必ず「ごめんね。ありがとう」と痛い程綺麗に笑うのだ。

謝る必要なんて少しも無いのに、力を得た事は彼女のせいではないのに、純真過ぎて自分の『罪』として受け入れてしまっているリノア。

無力な自分すら包んでくれるようなその微笑みが、スコールには辛く苦しいものだった。

 

 

「みんな、優しいよね」

定位置になりつつあるベッドに腰掛けながらリノアが呟いた言葉は、隣でガンブレードを手入れする為に彼女に半分背中を向けて座っていたスコールの耳にも確実に届いていたが、返事が出来なかった。

この先に続く言葉を聞きたくなかったからだ。ただ、無視はしたくなかったので、首だけ振り向いて口元だけで微笑んでみせた。

それを見たリノアも、それ以上の言葉は発する事は無かった。首を少し傾けてニコリと笑ってみせて、手を前に組むとそのまま上へ向けて「ん〜」と小さな声を出しながら伸びをした。その声に眠っていたアンジェロがビクリと反応したが、すぐに何事も無かったかのように、こちらも定位置になった入り口付近の藤製の籠にくるりと体を丸めて再び眠りについた。

 

「明日は車で行くんだよね」

「ああ。…なんせ6人もいるからな」

「嬉しいな。みんなと一緒に外に行けるなんて思ってもみなかったから」

弾んだ声でそう言ったリノアが突然、ポフリとスコールの背中に擦りつけるように額を預けてきた。

そんなリノアの動作は予想可能な範囲だったが、腰にまで手を回してくるのは予測を大きく越える行動で、スコールの胸が軋んで音を立てたスプリングとシンクロした。

普段を装いつつ触れられて欲しくない傷を隠しているような雰囲気の中、唯一そこだけが穏和な熱を帯びた。

彼女の行動はいつも、スコールの想像を上回る。意図せず翻弄しているのを彼女自身は全く気付いていない。

 

「リノア、そんなにくっつくな。暑い」

「え〜っ、そうですか?それは失礼」

「もうじき終わるから」

「うん。だからこうして、大人しく待ってますよ〜」

「やれやれ…」

溜息混じりに呟いたスコールだったが、そうは言いながらも一向に離れようとはしない彼女が、本音では鬱陶しいどころか可愛くて仕方ないのだ。

脈拍の感覚を彼女に聞こえてしまったら恥ずかしい——そう思っていたスコールだったが、諦めて自分の心に素直になることにした。若干無理な体制で相棒をケースに戻すと、体を捩って右手で彼女の肩をぐいっと引き寄せた。

その力に従った彼女が着地した場所は———————

 

「これで満足か?」

「きゃー!司令官の膝枕なんて、リノアちゃん照れるぜ!」

胸の前で手を合わせて軽口でおどけてみせているが、内心は焦っているのだろう、もう首から上が熟れた苺ように赤い。

こっちだってそんな様子が見たくて大胆な行動に出たのだ——スコールの作戦は上手くいったようだった。嬉しそうに赤らめた顔が何よりの証拠だ。

 

「膝枕、2回目だね。スコールの顔をこのアングルから見上げるのってなんだか不思議な感覚」

「2回目?…あぁ、目薬の時の事か。あれもカウントされるのか?」

「もちろん!記念すべき1回目は、スコール君がやさーしく介抱してくれたんだから忘れないよ」

「目薬くらいで大げさな。第一あれは無理矢理リノアが…にしてもまさか、目薬注すのも下手だとは思わなかった」

スコールは、言い終わらないうちから思い出し笑いをしそうになって必死に笑いを噛み殺した。

リノアが数週間前に結膜炎を患った時、目薬を注す前にどうしても目を閉じて失敗してしまうので、見兼ねて手助けをした。その中の一度だけ、彼女に請われるまま膝枕をして点眼してやったのだ。報酬はきっちり取り立てたが。

 

「転んだのに乗じただけだよな、あれは」

「…今、思い出し笑いしたでしょ」

「してない」

「絶・対、うそ!あの時だって派手に転んだなって笑ってたし!」

「実際そうだったじゃないか。いきなり抱きつかれて押し倒されたから、てっきり襲われるのかと思った」

「そ、そんな事しないもん!躓いただけです!」

我慢出来ずに吹き出したスコールを見ていたリノアは、目が笑っているが頬をぷうっと膨らませた。けれど、ふいに真顔に戻った。

スコールは、微笑みを消したその表情で心の裡を察してしまった。

 

僅かな希望は捨てたくないけれど、刻一刻と迫る明日への絶望に近い感情。

あんな風に心から笑える日が来ないかも知れないという諦めにも似た悲哀。

いつの間にリノアは涙を流さずに泣けるようになってしまったのだろう。どんなに辛くてもそんな事はさせたくなかったのに。こうして大人になっていかなきゃならないなら、時間なんか止まればいいのに。

 

夜空よりも深く宝石のように輝く黒い瞳。ただじっと見上げているだけなのに痛い位に伝わる思いを少しでも癒す為に、彼は黙ってそのままリノアの光を反射する黒髪を梳いた。

撫でていれば、少しでもその悲しみを自分が引き取れるんじゃ無いか——そんな幻のような希望をもって。

 

どのくらいそうしていたのか、リノアがギュッと目を閉じてまたすぐに開いた。

再びスコールを見上げたその表情は、もう普段と変わらないものだった。体をおもむろに起こして、目をくるりと上に向ながらいつもの声音で話し始めた。

 

「明日、何着ていこうかなぁ…」

「明日決めれば良いさ」

「え〜っ?女の子は準備がいろいろあるんだよ」

「今日はもう、ここから出さない。泊まっていけ」

「勝手だなぁ、もう…」

呆れとも諦めともつかない声を出したリノアはそっと右腕を上げてスコールのピアスに触れた。

耳朶に触れた指先は、控えめな冷たさをそれに与えた。

 

「私、スコールにピアスあげたいな。買ったらつけてくれる?」

「…センス次第だな」

「もうっ、なんでそんな意地悪な言い方するの?…だったら、一緒に選ぼうよ。ね、いいでしょ?」

すがるような眼差しの奥は、悲しい言葉を連想させた。けれどスコールはそれを見て見ぬ振りをした。

 

もう、時間を止めてしまいたかったから。

今夜だけは、今だけは、逃げだと揶揄されても構わない。考えるのも言葉を紡ぐのもやめてしまおう。

 

 

考えておくよ。

その言葉は、二人の唇の間で混ざり合って衣擦れの音に掻き消された。

 

 

 

 

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