デリングシティ8区8番街。

メインエリアよりもだいぶ離れているこの辺りには、住宅用アパートが立ち並び市民のベッドタウンとなっている。

 

3月になったのに寒の戻りのせいで歩く人々も幾分足早だ。

街路樹はもう、とうの昔に葉が落ちて、今は蕾を膨らませて間近に迫る春が来るのをじっと待っていた。

 

8番街の表通りの郵便局を右に曲がり道なりに進むと建物のせいで一見袋小路になっているように見える。だが実は、脇に人ひとり通れる道がある。その道の先に目的のカフェがあった。

青銅色の看板は時間が経ったせいで読みにくくなっているが、かろうじて『カフェ ミューズ』と読める。

 

そこは、面積の割りにはカウンター2席にテーブル4席しかなく、小柄なロマンスグレーの男が一人で経営していた。

裏通りのマニアックな場所のせいか、満席になることは滅多に無い。

ここの日常といえば、この先にある小さな公園に行くのに飲み物を調達しに来る客がポツポツ来るぐらいで、あとは地元の老人の休憩所となっている。

 

ガルバディアタイムズのエレナ=スタックワーズは、いつものように店に入った。今日は老婆が1人だけテーブル席にいた。

マスターは相手を確認すると、小さく「いらっしゃい」と言った。手元はもう、彼女の『いつもの』を作ろうとしている。

 

マスターは声が小さいし口数が少ない。かれこれ5年以上通っているが、話したのはカウンター席で二、三度くらいだ。

でも、おしゃべりな人よりは全然いい。彼女はこの店が大のお気に入りだった。

 

人があまり来ないのもそうだが、この店の作り込まれたレトロな雰囲気…特に年代物のアップライトのピアノに施された模様がいい。

マスターの入れるコーヒーもキリッとした爽やかさで仕事が捗る。

 

こんなに美味しいコーヒーなら、表通りに出せば繁盛するはずなのに…と、マスターに話した事があったが、彼は口元で笑っただけだった。

 

後になって、この場所に思い入れがあるから離れないんだと常連がこっそり教えてくれたことがある。

 

店内に入って『いつもの』を頼み、いつもの席に着くと、これまたいつものように手帳とパソコンを開いた。エレナはオフィスに戻る前に必ずここで取材をまとめてから帰ることにしている。

 

新聞記者——ただ単に恰好良い仕事と思って入社した。想像以上に捻じ曲がった現実に打ちのめされたこともあったが、それは少し前までの事。

『アルティミシアショック』後、デリング政権が崩壊しカーウェイ新体制になった今では、まだ混乱があるものの報道の自由もかなり許されている。

 

もっとも、彼女がどんなに自慢のブロンドを振り乱して取材しても担当は未だゴシップ専門だ。腐らないといえば嘘になるが、この業界、こんな事で腐ったら先はないのも分かっている。彼女自身も、最近ではこの環境に慣れつつあった。

 

いつの間にか置かれていたカップを口にする。

この澄んだ琥珀色にミルクを入れたら負け。柔らかな色になったら負けなのだ。

エレナは何故かこれを口にする度に強く、強く思うのだった。

 

 

編集長の指示とはいえ、ありきたりでつまらない記事を書き終えたエレナは、最後の一口を飲み終えた時に何故か違和感を覚えた。

視線を上げるとカウンター席に見慣れない人物がいたのだ。

 

ロイヤルブルーのスカラップワンピースを着て深く艶のある黒髪はギブソンタックにしている。格好はシンプルかつクラシカルだが、とにかく身なりの素材がいい。脇に置かれたコートもクラッチバッグも傍から見ればわかりにくいが、統一感がある。

楚々とした雰囲気のお嬢様がそこにいた。

記者としての直感だが、かなりの身分のはずだ。

 

若い子がここに来る事自体珍しいのだが、もっと驚いたのはマスターが今まで見たことのない笑顔で相手をしているのだ。

エレナは俄然興味が湧いた。

 

カウンター越しにマスターが何か話している。その度に彼女のパールのイヤリングが揺れて楽しげだ。

 

エレナはもう一つこのカフェのお気に入りがあった。壁の全てを吸音材にしている点だ。店の設計自体も音の反射を最小限に抑えた作りをしている。もしかしたら昔はピアノで何かやっていたのかも知れない。

時々、情報源とやり取りするのにこの店を使うエレナにとってはかなりありがたい作りなのだが、今回はそれが仇になった。話がまるで聞こえてこない。

 

今更カウンターに移るなんて事も出来ずに諦めてワンピースの主を見て…彼女はやっとその人物が誰か分かった。

 

(まさか、魔女リノア⁈)

 

いや、間違いない。時折見える横顔やあの人懐っこそうな笑顔に見覚えがあった。髪を下ろしていた印象だったから気が付くのに遅れた。

 

(でもなんで、こんな所に?)

 

社内でもよく話題になる人物が…公人に近い扱いの彼女が護衛も付けずにこんな場所に来るなんて思ってもみなかった。

慌てて手帳をパラパラと開いて全神経を相手に集中させる。

 

格好のネタだと記者の経験がそう判断した。ならば、手放すわけにはいかない。

 

 

エレナが緊張した瞬間、カランと扉が開いた。見ると長身の青年が立っている。

ダークグレーのスーツの上にトレンチコートを羽織って颯爽とカウンターに近づいてきた。

コートを脱ぎながら当然のように魔女の隣の席に着くと何か店主に話しかけた。どうやら注文したらしい。店主がにこやかに離れた。

 

今度はエレナもその人物がすぐに分かった。なるほど、護衛は『彼』か。

 

 

世界を救った英雄なんて見出しで一時期どの紙面も騒がせたバラムガーデンの司令官、スコール=レオンハート。

無愛想だか顔はいい。彼が載ると売り上げも違う。

だが、彼もいつもの様子とは違っていた。銀縁眼鏡をかけて髪も緩いオールバックにしている。眉間の大きな傷はそのままだが、眼鏡でいつもより目立たない。

まるで、変装しているかのようだ。

恐らく普通に通り過ぎただけでは気づかない。

 

と、彼が彼女の耳元で何か囁いた。

彼女はくすぐったそうに笑いながら相手に微笑みかけている。

その笑顔は、過去の自分にも覚えのある懐かしいものだった。

そしてその微笑みを受け取った相手の顔が——!

 

(えっ?どう見ても、あれって)

 

エレナは突然焦りだした。

これは、もしかして、とんでもない現場に遭遇したかもしれない!

 

 

魔女リノアが公の場に現れる時はいつもレオンハートが傍にいた。

けれどもそれは、共に戦った戦友としてだったり、一番優秀な護衛としているものだと皆思っていたはずだ。

エレナも勿論その一人だった。

 

(まさか、彼らが、恋人同士だったなんて……!)

 

改めて二人をまじまじと見る。

よくよく見ると、レオンハートのネクタイは彼女のワンピースと同じロイヤルブルー、チラリと見えるカフスもクラッチバッグと同じブランドのものだ。見る人が見れば分かるペアルック。恋人でなければこんな事はしないだろう。

 

(なんてこと…迂闊だったわ…)

 

エレナは手帳を閉じてパソコンを叩いた。

メーラーを立ち上げ、急いで仲間のカメラマンにメッセージを送る。

 

世紀のカップルの現場を押さえられるチャンスが転がってきた。

そして、チャンスとは掴むためにあるのだ。

 

 

 

サイフォンの音がコポコポと音を立てている中、二人は誰も割り込めない雰囲気で座っていた。まさに恋人の時間だ。

特にあのSeeDの司令官が、普段とは真逆で別人ではないかと疑うほど柔らかな表情をしている。

時々ポツリと話しては笑いあっている姿を女性ファンがみたら卒倒するだろう。

 

そんな雰囲気に突然マスターが割って入った。ニヤリと笑って青年の肩を叩いてなにか喋りだした。初めて見る饒舌ぶりだ。

 

マスターに話しかけられたレオンハートが少し困惑気味に顔を赤くしたが、神妙な面持ちで背筋を伸ばした。そして、

「そのつもりで来ました。実は昨日OKを貰ったんですが…彼女がここで…と言ったので」

 

何故か彼の言ったそれだけはエレナの耳にもはっきりと聞こえたのだ。

 

そして、彼女は息が止まってしまいそうな錯覚を覚えた。

 

 

彼がスーツから取り出した小さな箱。

女なら誰だって憧れるあの箱を、エレナだって知ってる。

 

そして、中に何があるのかも。

 

 

『それ』を受け取る彼女の目は、もう涙でいっぱいだ。

分かっていたのに抑えられない気持ちを必死で堪えているように見える。

 

 

まるで、映画のワンシーンのようだ。

 

 

彼女の指にピッタリと全て収まると、彼らはそっと手を取り合った。

互いの額を合わせて笑いながら彼がなにかを呟いた。それに対して彼女が小さく『ありがとう』と言っているように見えた。

ポロポロと流れる涙がどんな宝石よりも美しく思えた。

 

 

穏やかにお互いを想いあっている姿に、不意に目頭が熱くなってきた。

エレナは狼狽えた。急いで目をしばたたかせた。

 

(やだ、私が泣いてどうすんのよ)

 

でも、泣かずにはいられないほど感動的だったのだ。

ゴシップにまみれて疑り深くなった自分でも、純愛を信じてみたくなるような…そんな一幕。

 

見れば、老婆もマスターも泣いていた。この幸せの絶頂の時間に居合わせた幸運を感謝しているかのようだ。老婆に至っては二人に握手まで求めている。

 

エレナは一つ、長い溜息をついた。

ギラついていた自分が骨抜きにされたような気になったのだ。

いや、違う。正直、とても羨ましかった。

 

溜息を聞かれたのか、彼女がこちらを向いて会釈した。こちらも会釈を返すと、ホッとした表情でそのまま奥の化粧室に向かっていった。

 

 

エレナは迷った。記者としては一大スクープを逃したくはないが、女として彼らをこのままにしたくなったのだ。

カメラマンもじきに来る。決断しなくては。

 

二度目の溜息をつくと、そばに例の青年が立っていた。思わぬ展開に心臓が迫り上る。ヒヤリとした汗か背中を伝う。

 

 

「…失礼ですが、エレナ=スタックワーズさんでは?」

「……ええ、そうですけど」

「突然すみません。以前、ティンバーでお見かけした事がありまして」

驚きつつもエレナは観念した。

向こうは私を知っている。ならば、腹を括るしかない。

 

「今の事、記事にされますか?」

単刀直入な質問に思わず笑ってしまった。意外にまだ『青い』のね。

 

「…そうだと言ったら?」

「困ります」

「でしょうね」

ちょっと意地悪そうに答えてみた。

 

本当はもう決めていたが、見せつけてくれたこの青年に少し報復したくなったのだ。

 

「彼女の気持ちを尊重して頂く訳には…いかないでしょうね。彼女はもう一般人ではないし…ならば代案でお願いするしかないですね」

「代案?」

「ええ、『代案』です。これで手を打って頂きたい」

そう言って彼は目の前にブルーのカードを差し出した。そこには良く見る国旗と名前、電話番号が書いてある。

 

スクープとは…最近エレナも何度かガルバディアで見たことのあるこの人物に関するものなのだろうか?

エレナは困惑した。

新聞社も馬鹿ではない。それなりに彼についての情報を持っているが、全く見当がつかないのだ。

 

「これで、『代案』になるの?」

「恐らく。『ウィンヒルの息子がオープンにしたから話して構わない』と言えばわかるはずです。そうすれば彼が勝手に喋る」

「…?とりあえず、貴方を信じて損は無さそうだから手を打ちましょう。今日の私はコーヒーを飲みに来ただけ。さっきカメラマンを呼んじゃったから早めに出なさい」

 

「ありがとう」

 

ホッとしたのか、彼の表情が柔んだ。

話しかけて来た時は殺されるんじゃないかと思う位の顔してたのに。

もしかしたら、彼にとっても背水の陣だったのかもしれない。

普段はビシッとしてるけど、『伝説のSeeD』も恋人の前じゃただの男なんだわ。

(なんだ、案外可愛いんじゃない)

 

 

 

 

 

「エレナ、遅れてすまな……って、あれ?」

飛び込んで入ってきたカメラマンのロバートは店内にポツリと座るエレナだけを見つけて怪訝そうな表情をした。

「おい、エレナ、例の、魔女は?」

相当慌ててきたのか、息を切らして話すロバートを見上げて淡々と答えた。

「ああ、あれ?ごめんなさい、人違いだったの。お詫びに何か奢るわ。ここのコーヒー、美味しいのよ」

「はぁっ?おいおい、なんだよ。まったく、人騒がせな……」

ブツブツ言いながら向かいの席に腰を下ろしたロバートの顔は『コーヒーだけで済まそうと思うなよ』と言っている。

エレナは笑いながら「勿論、あなたのすきなウィスキーもご馳走するわよ」と言うと、やっと機嫌を直してくれたようだ。

 

「ブレンド2つ」

いつもの調子に戻った店主に注文して、ふと思いついた疑問を投げかけた。

「ねえ、ロバート」

「なんだ?」

「あなた、恋してる?」

「はぁっ?」

明らかに『頭おかしいのか?』のニュアンスが含まれてちょっとムッとした。

「……で、どうなのよ?」

「俺たちは、仕事が恋人だろ?」

サラッとロバートは即答して、カメラを愛しそうに撫でた。

 

確かに、その通りだったわ。

柄にも無く、少女のような気持ちになっていた自分が可愛くもあり寂しくもあった。

もうあんな熱さを私は持つ事が出来ない。

 

 

「あんたは、良い記者になるさ」

 

突然、声を掛けられて驚いて振り向くとマスターが笑っていた。

彼らと会話していた時と同じ表情で。

 

「ウチの一番のオススメだ、飲んでくれ。今日のお礼だ」

 

差し出されたカップをエレナはまじまじと見つめた。

頑に飲まなかったミルクたっぷりの、カフェオレ。

 

 

今日だけは、いいか。

一口飲めば、ミルクの甘さとコーヒーの苦みがゆっくりと染み渡る。

 

 

それは間違いなく、幸せの味がした。